「教育バウチャー制度」
いじめと集団主義からの脱却

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内藤朝雄『いじめの構造』より

3−中長期的政策−教育制度の根本的な改革を提案する

新しい義務教育
前の節で述べた「自由な社会」についての理論をベースにして、この節では、あらたな教育制度の青写真を提示する (なお、この制度を適用するのは、第二次性徴以降である。第二次性徴以前の乳幼児や小児を対象とする教育制度については、ここでは扱わない)。

図19は、国や地方公共団体がバックアップするタイプの教育の概略である。これを、順を追って説明していこう。



従来の義務教育は、保護者が子に学校教育を受けさせることを義務づけるものであった。この義務規定は、実質的には本人が学校に通う義務となる。さらに学校の卒業がありとあらゆる社会的キャリアの前提条件とされるので、学校に行くことは運命的ともいうべき義務になる。

それに対して、新しい義務教育は、強制してでも身につけさせなければならない、生きていくために必要最低限の知識に関して、保護者が子に国家試験をうけさせることを義務づけるものである。すなわち、新しい義務教育の「義務」は、次の二つに限定される。

1.日本社会で生活していくのに必要最低限の知識を習得しているかどうかをチェックする国家試験を子どもに受けさせる保護者の義務。
2.国家試験に落ち続けた場合には、後に述べる特殊貨幣、教育バウチャーを消化させる保護者の義務。

子どもに試験を受けさせない場合と、子どもが試験に落ち続けているにもかかわらず教育バウチャーを消化しない場合に限って、保護者は処罰される。上記「必要最低限の知識」の内容は次の三つに限定する。

(a)生活の基盤を維持するのに必要な日本語の読み書き。
(b)お金を使って生活するのに必要な算数。
(c)身を保つために必要な法律と公的機関の利用法。

国は、この三つの内容についての国家試験を行う。義務教育には、教育バウチャーを用いる。これは、教育用途にだけ用いることができる特殊貨幣である。国や地方公共団体は、人々がさまざまな学習サポート団体や教材を利用するためのバウチャーを人々に配る。

義務教育の内容に関して、どんな勉強のしかたをしようと当人の自由である。バウチャー制のもとで街にはさまざまな学習サポート団体が林立し、さまざまな教材が出回っている。各人はそれらを自由に選択して利用する。

新しい教育政策による義務教育は、現行の義務教育に比して、大幅に規模を縮小したものになる。義務教育は、いくらきれいごとで飾り立てようと、うむを言わさぬ強制であり、そのような強制は必要悪であるから、最小限にとどめなければならない (さらに、強制する内容は、犯罪でも犯さない限りは、学校への身柄の強制収容や強制集団化のような人間の尊厳をくつがえすタイプではなく、試験を受けさせるとか、バウチャーを消化させるといったタイプでなければならない)。

この義務教育の削減を、教育を受ける権利全般の削減であると考えるのは、まちがいだ。日本国憲法は、老若男女すべての人が、生涯にわたって、能力に応じた教育を受ける権利を有するとうたっている(第26条第1項)。

この教育を受ける権利は、人生初期限定の義務教育を受ける権利とイコールではない。国や地方公共団体は、この憲法に定められた教育を受ける権利のための制度をつくり、整備し、維持する義務を負う。にもかかわらず、政府は、この「すべて国民」が教育を受ける権利を保障する義務を怠ってきた。

そして、もっぱら、必要悪である義務教育にばかり重点的に予算を配分してきた。そのため、すべての人が権利を有し、国や地方公共団体が提供する義務を負うのは、義務教育だけであり、それ以外の教育は、提供されたら「おりがたい」、自分にお金がなければ受けることができなくても「しかたがない」、という間違った社会通念がいきわたった。

そして、教育を自由化し、義務教育を削減することは、人々が教育を受ける権利そのものを削減するものであるという、無実の罪がなすりつけられた。

逆に、「教育を受ける権利なのだから、なるべくたくさん提供してあげよう(強制してあげよう)」、という押しつけがましい論理によって、本書で述べてきたような学校共同体に強制収容する義務教育が、限りなく肥大化してしまった。

新しい制度がもたらすのは、義務教育の削減とセットになった、権利教育の拡大である。すなわち、義務教育を縮小した分、その何倍も権利教育を拡大する。学校教育から、生涯学習・社会教育への重点移動を、教育を受ける権利の拡大として行う。

教育バウチャー制

権利教育の説明に入る前に、教育バウチャー制についてもう少し説明しよう。先に逆べたように、教育バウチャーは教育のみに利用できる特殊貨幣であるが、これには義務教育用と権利教育用の二種類がある。

義務教育用バウチャーは、国家試験に合格するまで無制限に与えられる。教育用の特殊貨幣を、収入の多い人には少なく、収入の少ない人には多く配分すれば、教育に関する機会の平等を確保することができる。

しかも学校に児童生徒を強制収容する囚人の平等とちがって、平等と自由が両立する。この収入に逆比例するバウチャー制は、教育の自由化と平等化の相乗効果を経済的に下支えする。親が職を失って貧乏になると若者が高校を中退したり、大学進学をあきらめたりしなければならない現在の残酷な教育制度よりも、新しい制度の方がはるかに平等主義的になる。これが教育バウチャー制による自由な福祉主義である。

各人はどんな学習のしかたをしようと自由である。各人は試行錯誤しながら、自分に馴染んだ学習スタイルをつくりあげる。このような自由な学習者たちのための、さまざまな学習サポート団体が街に林立する。学習者は質のよい団体を自由に選択し、バウチャーをわたす。学習サポート団体はわたされたバウチャーに応じて、国や地方公共団体からお金をもらったり、税金を控除されたりする。

学習サポート市場での技能競争によって、試験に何回も落ち続ける人のための効果的な教授技術や教材が開発される。これは習得能力の低い人には、現在の学校をはるかに超えた質の高いサービスが提供されることを意味する。

また(試験に一発で合格しそうな)習得能力の高い人にとっては、何年も無意味に学校のいすに座り続ける拷問から解放されることを意味する。かけ算ができ、漢字やアルファベットまで読める小学生が、朝から夕方まで「あいうえお」とか「2+3」をやらされる苦痛は、かなりのものだ。

権利教育

権利教育とは、当人が自己の意志によって参加する権利を有する教育である。国や地方公共団体は、この権利を万人に保障するよう義務づけられる。権利教育は生涯学習・社会教育に含める。年齢制限はない。権利教育の対象は子どもから老人までのすべての市民である。また権利教育の場所は、老若男女が交じる市民的な空間となる。権利教育は、さまざまな年齢の人たちが交じりあって対等な市民として交際する市民状態にふさわしいものである。

権利教育は、図19に示したように、いくつかの基本ユニットに分けられる。基本ユニットとは、国や地方公共団体がバックアップする最小単位のことである。これまでの教育制度では、ほぼ独占的に、学校が基本ユニットになってきた。しかし、新しい教育制度では、義務教育にせよ権利教育にせよ、学校を基本ユニットにしない (このことは、後に述べるように、今ある学校のようなタイプの団体の消滅を、かならずしも意味するものではない)。

新しい教育制度では、権利教育を、学習系と、豊かな生の享受系(自由な〈遊動一着床〉の積み重ねによる自己形成ときずな形成のサポート)とに、大きく二分割する。このことによって、きずな形成はきずな形成として、魅力と幸福感によって自由に享受できるようになる。

また、不本意な集団主義に妨害されることなく、ひとりひとりが、自分の能力とぺースにそったやりかたで学習できるようになる。現行の学校制度では、「仲良くする」ことと「まなぶ」ことが強制的に抱き合わせにされている。本書で問題にしてきた残酷な心理−社会現象の蔓延は、第5章でくわしく論じたように、「まなびの共同体」というやりかたで若い人たちを一日中強制的に「ベタベタ」させる学校共同体主義によるものである。

また現行制度のもとでは、学校で集団生活することが「勉強する」ことであるといった現実感覚が蔓延する。多くの生徒たちは、終日ぼんやりと教室に座っているだけで国語や数学をろくに習得していなくても、「学校で授業を受ける」という集団行動(集団学習)をすることでもって、自分は「勉強をした」と思っている。一日中学校で「授業」を受け、さらに塾に通い、それでも(その結果!)勉強ができないといったありさまは、生徒にされた人たちのあいだでは普通のことである。

彼らは、これまで論じたように強制的な集団生活のなかで無限定的な(どこからどこまでという限りのない)人格支配を受けるだけでなく、さらに、その集団学習(「まなびの共同体」)の反復によって無能の習性を植えつけられる。

さらに学校では、努力して数学や国語や英語で優秀な能力を身につけたとしても、「態度が悪い」「協調性に欠ける」とみなされると、酷い成績をつけられる。高校へは勉強して行くのではなく、「先生やみんなと仲良くして、人からよく思われて、行かせてもらう」といった感覚すら蔓延する。内申や推薦や情意評価といった制度は、卑屈な精神を涵養し、精神的売春を促進し、さらに課題遂行という点では人間を無能にする (これは短期的な政策の部類にはいるが、内申や推薦や情意評価といった制度は即座に廃止すべきである)。

学問系・技能習得系と豊かな生の享受系

さて、学習系と豊かな生の享受系を分割したうえで、学習系はさらに学問系基本ユニツト(学をつける)と技能習得系基本ユニット(手に職をつける)に区分される(図19)。

学問系は国家試験、技能習得系は国家試験あるいは業界団体試験によって習得認定がなされる。認定試験は努力を要しキャリアに直結し、向上心を涵養する。学同系においても、技能習得系においても、どんな学習のしかたをしようと当人の自由である。各人は、街に林立する多種多様な学習サポート団体や、豊富に供給される多種多様な教材を自由に選択する。

学同系にせよ技能習得系にせよ、あらゆる認定試験に共通の原則として、学習サポート業務と資格認定業務を分割することが必要である。この分割によって、教員(学習サポート・サービスを提供する従業員)は、「おまえの運命はおれの評価しだいだ。おれの気分のいいようにしろ。おれのことをないがしろにしたら、どういうことになるかわかっているだろうな」といった、誇大気分の役得をむさぼることができなくなる。内部評価だと、評価する者の「胸三寸」をおしはかる卑屈競争になりかねない。

それだけではない。さまざまな学習サポート団体が多様化しながら豊かに進化するためにも、学習サポート業務と資格認定業務を分割する必要がある。役所や商工会議所で受ける認定試験に合格するニーズに支えられて、さまざまなスタイルの学習サポート団体が地域に林立し、人々はそれらを自由に選択したり見限ったりする。するとそのような淘汰によって、さまざまな工夫をし、質の高い学習サポートを提供する団体が生き残る。教え方が下手なくせに教員がやたらと威張っていたり、いじめが蔓延したりする団体は見限られて消えていく。こういう淘汰圧によって、学習サポート団体の質は高くなっていく。こういう公正な競争を確保するためにも、学習サポート業務と資格認定業務は分割しなければならない。

次に、豊かな生の享受系を説明する。豊かな生の享受系は、先ほど述べた〈遊動一着床〉の積み重ねによってなしとげられる、ひとりひとりにフィットした自己形成ときずな形成を手助けするものである。〈遊動‐着床〉すなわち、フラフラ自由に動き回って、めいめいのやりかたで他者との関係に自己感覚を埋め込みながら、それぞれの自己が成長していくことが大事なのである。当然のことながら、豊かな生の享受系には試験はない。キャリアにも無関係である。

本章第2節で述べたように、きずなにはさまざまなタイプがある。また、ひとりひとりがさまざまなきずなと自己を生きるスタイルは複雑であり、把握不能である。行政は「何がよい生き方か」について、一定の方向に導こうとしてはならない。ただ、ひとりひとりのきずな形成と自己形成を、生態学モデルの環境整備によって支援することができる。

行政は、権利教育にアクセスするライフチャンスを万人に提供する義務を有する。すなわち行政は、街を権利教育の誘惑空間と化する都市計画を行い、収入に逆比例するバウチャー配付によって機会の平等を達成する責任を有する。行政は、魅力による淘汰が展開する自由な空間を維持する役割を担う。

従来の押しつけがましい設計主義的な教育は、「望ましい人間像」を設定してそれに近づけるためのコントロールをめざしてきた。これは杉の植林のようなものである。それに対して、自由な社会のための生態学的な設計主義は、魅力と幸福感による淘汰と進化と多様化が十分に展開するような生態学的な大枠をつくりあげ、維持しようと努力する。

旧制度から新制度へどうなめらかに移行するか

新制度のもとで権利教育や義務教育を担う多様な団体は、たとえば英語学習サポート団体のように、単独の基本ユニットがそのままひとつの団体であることもあるし、また複数の基本ユニットが結合した団体(基本ユニット抱き合わせ団体)であることもある。実際に、人々が生活する地域に学習支援団体や市民クラブが林立する姿は、図20のようになる。



たとえば、学習支援団体と市民クラブとが抱き合わせになっているユニット抱き合わせ団体を好む人は、その団体にバウチャーを払って参加することもできる。もちろん、抱き合わせを好まない人は、学習支援団体と市民クラブに別々に参加することができる。学習支援団体と市民クラブを抱き合わせにしたユニット複合団体のうち、現在の学校とほぼ同じサービスを提供する団体が存在してもかまわない(ただし、成績の内部評価は、公的には予備校の模試と同じような意味しかない。キャリアと直結する試験は、国家試験と業界団体試験のみである)。これを旧学校型ユニット抱き合わせ団体と呼ぼう。従来の学校を愛する人は、旧学校型ユニット抱き合わせ団体にバウチャーを払って参加することもできる。

このように考えると、現在の共同体型の学校生活に慣れていて、それを好む人々は、評価と指導が分離するという点以外では、これまでとまったく同じ学校生活を送ることができる。ただ、選択の自由があるだけである。さらに、学校共同体を愛する人々にとって、本当に学校共同体を愛する者だけが学校に通うようになり、強制されて泣く泣く共同体をさせられる「奴隷」がいなくなるのだから、自分たちの「理想の共同体」はすばらしいものになる。

もちろん、学校共同体が嫌いな人は、奴隷的な境遇から解放される。つまり、学校共同体主義が好きな人にも、嫌いな人にも、双方にとって利益になる。「学校的」であろうと、「学校的」でなかろうと、さまざまな団体は、人々が好み、選択する限りにおいて存続する。さまざまなタイプの団体は、人々が選択すれば数が増え、選択しなければ数が減るので、人々のニーズに合った分布に近づいていく。人々が何をどのくらい欲しているかは、人々の選択によって、おのずから明らかになり、それに応じた供給がなされるのである。

制度を変えた直後は、ほぼ八割の人が旧学校型ユニット抱き合わせ団体を選択するかもしれない。それは、それでかまわない。その一〇年後に四割になっているかもしれないし、あるいは、あいかわらず八割であるかもしれない。それもどちらでもかまわない。大切なことは、人々がどういう生のスタイルを生きるべきかということではなく、魅力と幸福感を指針とする試行錯誤の結果に応じた生のスタイルを生きやすい生活環境が、用意されていることである。これが「生きやすい社会」なのである。

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