密室空間でのコミュニケーション操作系いじめ

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内藤朝雄『いじめの構造』より

1−閉鎖空間でベタベタすることを強制する学校制度

悪口、しかと、くすくす笑い
さて、これまで述べたように、聖なる教育の共同体としての学校は、迫害可能性密度の高い政治的な生活空間でもある。この迫害の媒体(メディア)は、暴力とは限らず、悪口、「しかと」「くすくす笑い」など、コミュニケーションの操作によるものもある。コミュニケーション操作を媒体とするいじめについても、これまで述べた政治空間論や、さきほどの社会的資源論が、ほぼそのままあてはまる(ただし、暴力系のいじめとコミュニケーション操作系のいじめとでは、法的介入がおよぼす効果という点で、大きく異なっている)。

悪口や「しかと」「くすくす笑い」といったコミュニケーション操作系のいじめだけで、生徒が自殺することがある。市民状態にあって心理的な距離を自由に調節できる人は、「しかと」などのコミュニケーション操作系のいじめで被害者が非常に苦しみ、ときには自殺にさえ至ることを、不思議に思う。「なんでこんなことぐらいで、そんなに苦しむのか。単純明快につきあわなければよいではないか」、というわけである。

確かに自由な市民の状態であれば、心理的な距離の自己決定によって、即座に彼(彼女)から「ひく」ことができる。人間だれでも「いやなやつ」や「敵」の一人や二人はいるものだが、市民状態であれば公私の境で自由に距離を設定し、その設定ラインを越えて踏み込ませないことが可能である。この人とはホームパーティに誘い合う仲だが、あの人はプライペートな関係には立ち入らせず、関係を事務的なものに限定する、といった心理的距離の自己決定である。

公私が峻別された市民状態では、
コミュニケーション操作系のいやがらせは、それを不快に感じる側が自由に「ひく」ことによって、大きなダメージに至る前の段階で終息する。いやがらせをする側は、それ以上相手を追うことができない。すなわち「つきあってもらう」ことができない。

しかし学校共同体では「単純明快につきあわない」ということができない。朝から夕方まで過剰接触状態で「共に育つかかわりあい」を強制する学校では、心理的な距離の私的な調節は実質的に禁止されている。学校では、たとえ赤の他人であっても、「友だちみんな」と一日中顔をつきあわせてベタベタ共生しなければならない。

誰と生々しいつきあいをし、だれと冷淡なつきあいをするかを自己決定できない場合、「いやなやつ」の存在は耐えがたい苦痛になる。たとえば、顔を合わせるたびに「ちょっとした」悪意のコミュニケーションをしかけてくる者たちがいるとしよう。コミュニケーションの受け手は、学校では悪意の者たちとの距離を遠ざけ、その生々しさを薄めることができない。そして距離の調節ができないことにつけこんで、悪意の者たちは生々しい関係を保ちながら、えんえんと悪意のコミュニケーションをあびせ続けることができる。やっていることのひとつひとつは、無視、悪口、陰口、嘲笑といった、一見「たいしたことない」行為だが、個としての対人距離の調節を禁止された共同体で「これでもか、これでもか」とやられると、それだけで耐えがたい苦痛となる。

そして、この苦痛から身を守るニーズが増大し、このニーズをめぐる利害構造が巨大化する。この巨大化した利害構造に枠づけられて、集団心理‐利害闘争の政治空間が肥大し、圧倒的な存在になる。それは、集団生活を送るひとりひとりの生徒には、絶対的な運命の力としてあらわれる。このような生活空間で蔓延する人間関係の政治が、最初の人間関係の苦しみと、それを避けるためのニーズを拡大再生産する。

「性格を直すから、どうか仲良くしてください」

狭いところに閉じこめて「友だち」を自由に選べないようにしている学校では、次のような屈従と人格変容が起こりがちだ。すなわち自分を迫害し、信頼を裏切る悪意の「友だち」との関係で苦しむとき、より美しい関係を求めて「友だち」を変えるのではなく、自分自身の「こころ」の方を、「友だち」に仲良くしてもらえるように、変えようとする。それがどんなに酷い「友だち」であっても、それが「いま・ここ」のきずなであれば、学校の「友だち」にしがみつくようになる。実際に、いじめ被害者が、「仲良くできなくてごめんなさい」「性格を直すから、どうか仲良くしてください」と涙を流して加害者に屈服するといったことは、よくある光景だ。被害者は、悪意に満ちた「友だち」に「仲良く」してもらえるよう、自分の「こころ」の方を変えようとする。

こういう屈従は、自由な人間にとっては奇異に感じられるかもしれない。「こんな醜い人たちとは距離をおいて、もっとよい友だちとつきあえばいいのに」と不思議に思うかもしれない。誠実でない、あるいは迫害する者を友とせず、気楽にたがいの真実を語り合える者を友とするのは、自由な人間にとっては自明のことではないか。

しかし、選択の余地がない場合には、多くの人ははいつくばって、「自分の性格を変えようとする」 その理由を考えてみよう。学校のクラスに朝から夕方まで囲い込むことは、酷い「友だち」に悩む者に対して、次の二者択一を迫ることを意味する。この苦しさは、友を選択できる自由な人間には理解しがたい苦しさである。すなわち、ひとつめの選択肢は、過剰接触的対人世界にきずながまったく存在しない状態で数年間、毎日朝から夕方まで過ごす、というものだ。迫害してくる「友だち」とつきあうのをやめる。そして、数年間、朝から夕方まで、人間がベタベタ密集した狭い空間で、人との関係がまったく遮断された状態で生きる。声、表情、身振り、その他、さまざまなコミュニケーションが過密に共振し接触する狭い空間で、ひとりだけ、朝から夕方まで、石のように感覚遮断をしてうずくまっている状態を、少なくとも一年、長ければ数年続けるのだ。これは、心理学の感覚遮断実験と同じぐらいの耐えがたい状態だ。

もうひとつの選択肢は、ひどいことをする「友だち」に、魂の深いところからの精神的な売春とでもいうべき屈従をして、「仲良く」してもらえるように自分の「こころ」を変える、というものだ。つまり、過酷な集団生活を生き延びるために、自己が自己として生きることをあきらめ、魂を「友だち」に売り渡す。そして、残酷で薄情な「友だち」のきずなにしがみつく。大部分の生徒は、後者を選ぶしかない。

学校に限らず、人間にとって閉鎖的な生活空間が残酷なのは、このような二者択一を強いるからだ。また、しかとや悪口(ぐらいのこと!)で自殺する生徒がいるのは、このような生活空間で生きているからだ。市民的な空間で自由に友を選択して生きている人にとっては痛くもかゆくもないしかとや悪口が、狭い空間で心理的な距離をとる自由を奪われ、集団生活のなかで自分を見失った人には、地獄に突き落とされるような苦しみになる。

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