利害計算にもとづくいじめ

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内藤朝雄『いじめの構造』より

1−利害と全能のマッチング

損をするならいじめ続けない
いじめに関わる全能筋書は利害計算と緊密に結合し、利害計算に従属したかたちで作動している。筆者が知る限り、自分が多大な損失をこうむることがわかっていても特定の人物をいじめ続けるというケースはほとんどない。次の事例の、「普通生活してるなかで、人のこと、がんがん殴る、ってことないじやないですか」という加害者の言葉は、みごとに核心を突いている。

【事例12・がんがん殴れる場所】
中学生のとき、いじめをしていた青年は、以下のように記者に話す。
「朝会って、『おはよう』でケリを入れる。殴って顔が腫れて、誰だかわからない。その子は授業中顔を伏せている。先生は寝てると思ってる。その後、また殴る。なんでも、すぐ因縁つけて。ターゲット決まったら、そいつに集中ですね。まあ、登校拒否しちゃうから、そういうやつは、結果的に。そうするとまた、つまんねえ。他のやつに移動して。それをなんか楽しんでやってたから。(中略)やりすぎたかなっていうのは、いまごろになって思うことで(中略)中学あがって、イライラするじゃないですか。わかんないことばっかりだし。先輩こわかったり。勉強できないとか。先生が好きじゃないとか。まあ、家のこともあったり。だから、やっぱ、そうなると、いじめちゃうし。普通生活してるなかで、人のこと、がんがん殴る、ってことないじゃないですか。発散できるから。ある意味で気持ちいいし」

彼はその後、教員の強い指導で、いじめることができなくなる。そして「いじめられる人間いないから」ということで、今度は万引きなどの非行に走り、「クスリ以外はなんでもやった」。
(TBSテレビ「NEWS23」の特集より、一九九五年九月一一日放映)

自分が人生の大部分を過ごす市民社会(「普通生活してるなか」)では、「人のこと、がんがん殴る」などということは、なかなかできるものではない。せっかく中学という「普通生活してるなか(市民社会)」でない特別な環境にいるのだから、できるうちに思う存分「がんがん殴る」全能を味わい尽くしておこう、という利害計算がよくあらわれている。

加害少年たちは、危険を感じたときはすばやく手を引く。そのあっけなさは、被害者側も意外に思うほどである。損失が予期される場合には、より安全な対象をあらたに見つけだし、そちらにくら替えする。加害者側の行動は、全能気分に貫かれながらも、徹頭徹尾、利害計算にもとづいている。

いじめのハードケースのうちかなりの部分は、親や教員などの「強い者」から注意されたときは、いったんは退いている。「自分が損をするかもしれない」と予期すると迅速に行動をとめて様子を見る。そして「石橋をたたき」ながら、少しずついじめを再開していく。「大丈夫」となると、「チクられ」た怒り—全能はずされ憤怒—も加わっていじめはエスカレートする。しかも、そのころには親や教員の力は「思ったほどではない」という自信もついている。

ハードケースの「破局が唐突に」起こるまでには、ゆっくりとした損失計算の下方修正がある。ほとんどすべてのいじめは、安全確認済みで行われている。頻発しているハードケースは、利害コントロールが十分に行われていればソフトケースの程度で終わるはずのものである。市民社会の論理を学校に入れないことが、ハードケースを頻発させている。暴力に対しては警察を呼ぶのがあたりまえの場所であれば、「これ以上やると警察だ」の一言で、(利害計算の値が変わって)暴力系のいじめは確実に止まる。

利害計算と全能筋書

いじめ加害者たちが、全能気分を味わうために「うまい」手だてをみつけ、他人を痛めつけるプランを立て、安全を確保し、非難された場合には言い訳をする、現実的な段取りの組み方は、合理的でたくましい利害計算能力にもとづいている。集団のなかで「すなおになる」ということ過酷な集団生活であるほど、このような利害計算と全能筋書のマッチングが、生き延びるために余儀なくされる魂の技法、あるいは、存在の深いところにねじ込まれる反応の型として強いられる。

すなわち、そのときそのときの「いま・ここ」に応じて、損得勘定の機能を担う解離した心理的断片群(利害モジュール)と、悪ノリの機能を担う解離した心理的断片群(全能モジュール)とが連動しながら、スイッチが入ったり切れたりする—というやりかたで瞬時に反応して生きるよう、人間がまるごと改造される。これが、集団生活のなかで「すなおになる」と言われていることである。次の事例を見てみよう。

【事例13・すなおだから】
ある高校生Aの事例。暴力に満ちたクラスには、殴られ要員がいる。Aは観客だった。見物してはやし立てて楽しんでいた。「無理してつきあってる。さぐりあい。ほんとは、つきあいたくない。だましあいなんだよ。要するに。あの学校では。上の人の話を単に聞くだけじゃなくて、話を聞く態度、要するに接している態度を見せなければならない」「接している態度とは?」筆者は質問する。Aは答える。「話をあわせる。相手はどんな気分になるのか? こいつは仲間なんだなと、そう思うんじゃないの。殴られ要員にならないために、話をあわせる。自分だけでなくみんなそう。いじめられる第一の原因は見かけ。こいつ変な顔してる、からはじまる」「変な顔してるやつが強いヤツだったら?」「みんな従っちゃう、すなおだから」
(筆者の聞き取り調査より)

「変な顔」という印象で異物として認定され、「異物に対して憤る破壊神とその攻撃によって崩れ落ちる生贅」という全能筋書が作動するかどうかは、相手が強いかどうかによっている。相手が強いと認定されれば、急遽全能筋書の具現は取りやめになり、相手の顔が「変な顔」と体験されなくなる。暴力的全能感にまつわる全能筋書は、安全確保という目的に即した強いかどうかの値踏みによって、作動・非作動が制御されている。

コラム3 利害図式と全能図式

本書でここまで述べたことを用いて、残酷な心理社会的な秩序を蔓延させないようにするための有益な制度・政策的な基本原則を導き出すことができる。これは、たとえば、部族や民兵や利権グループのだましあい、殺しあい、利権獲得競争が、同時に、宗教的あるいは民族的な情熱の「純粋」な発露でもある紛争の分析にも、大きな威力を発揮するだろう。

一般に、全能気分(ありとあらゆるタイプを含む)の追求にふける者の人口比率は図21のようになる。



利害図式と全能図式をうまく(技能的に)接合して生きている者、たとえば「損得ずくで悪ノリする」者の人口は、利害図式と全能図式を技能的に接合する傾向の小さい者、たとえば損得を考えずに「悪ノリ」する者の人口よりも、圧倒的に多い。

たとえば、他人をなぶり殺しにして楽しむ者は、平時にはきわめて少なく、民族紛争時に多い。また、無法な学校共同体でいじめにふける者も、法のもとでやすらう市民社会においては、内的モードが切り替わっており、中学時代のようないじめをしようという気にすらならないものである。

太古から現代にいたる人間社会をながめ、これまでに述べてきた理論をもとに、次のように考えられないだろうか。利害構造と全能図式(特に他者コントロールの全能)が一致していると思われるところでは、利害と全能の相互増幅的な共形成によって、ひどいいじめ、暴力、つるし上げ、リンチ、略奪、殺害、ジェノサイドなどの危険な「悪ノリ」が蔓延し、エスカレートする危険性が大きいと考えることができる。

それに対して利害図式と全能図式が一致していない社会状態では、少なくとも「悪ノリ」がエスカレートする危険性は少ないと考えることができる。利害図式と全能図式の接合点(すりあわせ面)をピンポイントで狙って、制度・政策的に一致しないようにする政策によって、(いじめからジェノサイドにいたる)世界にはびこる残酷な心理‐社会的な秩序を、確実に減少させることができるのではないだろうか。たとえば次のような古今東西の事例は、この説を強烈に支持している。

1.魔女狩りは狂騒的なお祭り騒ぎであると同時に、効率のよい金儲けの手段でもあった。
2.日本ではしばしば、学校の暴行教員は、非暴力的な教員よりも「指導力」が認められて、教頭や校長への出世に有利である。
3.戦時中の軍部では、非現実的な主張で気迫を示す演技が仲間内での立場を安泰にし、臆病者というレッテルを貼られたら自殺を強要されることすらあった。
4.いじめが蔓延する教室で、キレる実演は自分の立場を有利にする。
5.文化大革命時の中国では「悪ノリ」することが同時に保身の術でもあった。
6.民族的憎悪や宗教的憎悪の盛り上がりによる殺戮というかたちをとる紛争は、じつは、さまざまな有力グループによる「合理的」な利権獲得競争の延長でもあった。国際社会が前もって利害構造をコントロールしていれば、これほど残酷なことは起きなかったはずである。

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