いじめの再生産システム 「タフ」の全能

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内藤朝雄『いじめの構造』より

2−弱者にとっての「タフであること」

「体験加工」
ひどい理不尽に対してされるがままでいるしかない、無力でみじめな者は、この耐えがたい、生きがたい体験の意味を、それでも「生きうる」、さらには「生きるに値する」ものへと変造しがちである。このようなリアリティの変造を、本書では「体験加工」と呼ぶ。

皮肉なことに、多くの人々がこの体験加工を行うことの積み重ねが、当の耐えがたい現実を再生産する(メカニズムの主要な構成要素になる)ことがある。そういうとき、人々を苦しめる悲惨な現実は、いつまでも続く。

その顕著な例が、「タフ」の全能、「タフ」の倫理秩序といわれるものである。生きがたい小社会の「自分たちなり」の秩序のなかで、理不尽にいじめられ、その理不尽をされるがままに耐えるしかなかったみじめな者たちは、しばしば、このような苦労をしたことによって自分は「タフ」になった、というふうに体験を加工する。この体験加工の習慣が、最初の残酷と迫害に満ちた小社会を再生産するのである。

この悪循環について詳しく説明しよう。これまで述べたように、全能感は自己の不全感の反転(救済)感覚として生じ、さまざまな筋書に託して具現されるのであった。たとえば、他者を殴り、恐怖で震えあがらせ、辱め、どこまでも思いどおりにする、といった類の筋書によって、いじめ加害者は全能の「強さ」の感覚にひたる。こういったいじめの全能とともに、重要な役割を果たすのが、「タフ」の筋書による全能である。逃げることができず、圧倒的な理不尽に屈服して生きるしかない者は、しばしば、耐えること自体を、「タフ」という全能筋書に変造する。つまり、本来は自分のダメージを最小限にとどめるための戦略(計算のひとつの「解」)にすぎない「耐える」というかたちを全能筋書に用いて(流用して)、「タフ」という全能の「強さ」をこの身に具現しようとするのである。

されるがままになるしかないみじめさが、されるがままであり続ける「強さ」にすりかえられる。これが「タフ」の全能である。たとえば、加害者は、「おれは強いぞ」「強いぞ」「殴る」「殴る」「殴る」……という全能を生きる。それに対して被害者は、「どんなに殴られても、鉄のように固まって、ぐぐぐと耐える」「耐える」「耐える」「それでも、タフに耐える」……といった、弱者のなけなしの全能を生きる。

加害者が「これでもか、これでもか」、と痛めつけてくるのに対して、被害者は「これでもか、これでもか」と、悲しみや、痛みや、正義感や、ぬくもりや、人間らしい感覚を、自己の内側から切断し抹殺する内向きの「たたかい」にはげむ。そして、このことによって自己を鉄の塊のような「タフ」のイメージにつくりかえ、「勝利だよ」「勝利だよ」と「タフ」の全能にひたる。

「タフ」を自負することで現実のみじめさを否認する

こうして、「タフ」になると自負することで現実のみじめさを否認する。「タフ」の全能を具現するには、たえず、実際のみじめな自分を否認しつつ解離(凍結)しておかなければならない(この解離されたみじめな自己の像が、図10のIである)。これが、弱者のなけなしの全能感としての「タフ」である。

「弱い」うちは、このような体験加工によってみじめさを否認し、「耐えるタフ」の美学を生きながら、ひたすら「世渡り」の技能を修得する。この技能修得は、全能を具現する筋書になる。すなわち、悪ずるく「うまくやりおおせること」が全能を具現する筋書として用いられ、「耐えるタフ」から「世渡りのタフ」が分岐していく。つまり、苦労をして「タフ」になった人たちにとってみれば、「うまくやりおおせること」は、単なる実利の追求にとどまらない。(全能筋書としての)「うまくやりおおせるタフ」の具現による、みじめだった自己の救済という意味を待つ。

たとえば、場の雰囲気や人の顔色をうかがって、黙っている。何を考えているかわからないような態度をとり、自分を偽って、調子を合わせ、うまく他人をだまし、裏で人間関係をコチョコチョ画策する。恥知らずなうそをつき、誠実そうに、他人が右往左往するのを黙って見ている。ときには自分のうそに部分的に陶酔しながら、圧力をかけ、他人をひるませ、場のムードを操作する。このように、「うまくやりおおせる」ことそのものが、「タフ」の全能として、みじめな自己を救済する筋書として用いられるようになる。

「うまくやりおおせること」が救済の価を有するということが、実利とはまた別の次元で、「うまくやりおおせる」技能の修得へと、人を駆り立てる。こうして、「タフ」の全能筋書は「世間を泳ぐ」生活技能に織り込まれていく。ここのところに「世間に揉まれる(苦労をすると悪くなる)」といわれることのエッセンスがある。このことは、全能と利害計算との結合をさらに加速する。この点については、次章で詳しく論じる。

いじめられることといじめることの間を埋めるメカニズム

さらに「タフ」の全能筋書は、いじめられることといじめることとの間を埋めるメカニズムのひとつでもある。いじめや虐待をされてから、いじめをするようになった者の多くは、この「タフ」の全能を生きている。以下で、このメカニズムを追ってみよう。「耐えるタフ」から「うまくやりおおせるタフ」になった者は、往々にして、自分が過酷な社会環境で「うまくやりおおせる」ことができるようになると、少しずつ、その「世渡り」の一環としていじめという〈容れ物〉‐内容モデルの「癒し」をはじめる(図10)。

「弱者」からほどほどに「強者」になると、これまで否認し凍結してきた、みじめな自己の筋書ユニット(図10の「みじめな筋書ユニットA」)を少しずつ解凍し、先に述べた〈容れ物〉(に対する投影同一化)を用いて「癒し=いじめ」をはじめる。このように、かつていじめられていた者が、今度は、他人を執拗にいじめるようになる、ということは、よくあることだ。この場合いじめは、心理的に生き延び「ステップアップ」するために、必要不可欠な(しかも生徒たちの小社会では許容される)いとなみと感じられるはずである。

こうして、「タフ」の筋書は、「耐えるタフ」から、「うまくやりおおせるタフ」を経て、「いじめるタフ」へと変容していく。また「タフ」をめぐる感情の論理が、不幸の平等主義やいじめに対する権利意識や美意識を生む。「迫害可能性密度」が高く、過密な集団生活を強いられる生徒たちの小社会には、「タフ」の美学がそのまま群れの倫理となるような、独自の「タフ」の倫理秩序が自生する。

タフの美学・倫理が「きれいごと」(たとえば、普遍的なヒューマニズム)によって侵害された場合、生徒にされた者たちの群れは、憎悪を湛えて侵害者たちをにらむ。前掲「事例3・遊んだだけ」では、中学生たちはヒューマニズムを押しつけてくる大人たちを上目づかいににらんでいる。

次のような事例も、「タフ」になった者のありかたを典型的に示している。

【事例10・タフに、にらむ】
〈その1〉 一九九四年、愛知県西尾市東部中学校で、いじめグループが大河内清輝君(当時一三歳)を残酷にいじめぬいて自殺に追い込んだ事件は、マス・メディアに大々的に報道され、多くの人々の記憶に残った。このグループの「社長」と呼ばれるリーダーは、中学校の先輩からいじめられて、その後にいじめるようになった「タフ」の鍛え上げを経ている。彼は、清輝君が自殺した直後に父の大河内祥晴氏に呼び出されても、「ポーカーフェイスを決め込」み「睨むような目つきで祥晴さんを見返したまま」だった。
(示林篤「ボクは旅立ちます」『月刊現代』一九九五年二月号)

〈その2〉 暴力いじめによって全治ニカ月の骨折を負わせた少年は、入院している被害者B君の病室を母とともに訪れ、「あやまるでもなく、ただ、じっとB君の顔をにらみつけていた」。
(太田覚「いじめ地獄絶望の報告書」『週刊朝日』一九九五年一月六・一三日合併号)

「タフ」になれない者を「玩具」にするのは「正しい」

痛めつけられて「タフ」になった彼らは、悲しみや、痛みや、正義や、人間らしい感覚を切断して、自己を鉄の塊のような「タフ」のイメージにつくりかえることに、自己刺激的なこだわりを持つ。自分が殺したり、大けがを負わせたりした被害者の家族を前にして何も感じるところがなく、無表情ににらみつけ続けることは、弱く傷つきやすい人のこころを失い(克服し!)、人間を超えて鉄の塊のようになった強さのイメージをもたらす。

これこそ「タフ」の真骨頂である。彼らが「世渡り」をする社会(「世間」)では、十分に「タフ」になった者が「タフ」になれない者を「玩具」にして「遊ぶ」ことは「正しい」ことであり、生徒たちは、自分たち「なりの」社会のなかでこの「権利意識」を持つようになる。いじめを耐えた体験が大きければ大きいほど、この「権利意識」も大きくなる。「きれいごとを言ってくる連中」からの、この「権利」の侵害(不正)に対しては、激しい怒りをぶつける。自分自身が迫害されるなか、必死で「世渡り」をして生き延びてきたという「タフ」の自負(生存の美学)と、「世間」とはそういうものだという秩序感覚が、このような事態を生んでいる。

つまり、このような生徒たちにとっては、自分が所属し、忠誠を捧げ、規範を仰いでいる社会は、人を殺してはいけないとする社会や、法律で人々を守っている社会ではなく、涙を流しながら「世渡り」をすることで自分たちが「タフ」になってきた社会である。生徒たちは、学校で集団生活をすることによって、このような集団教育をされてしまう。

「タフ」の美学は、いじめられる者は情けないからいけないのだとか、いじめられた者は強くなっていじめる側になればよいという実感をもたらす。

彼らは、自分を痛めつけた嗜虚者が「タフ」の美学を教えてくれたというふうに体験加工する代わりに、「タフ」になれない「情けない」者には「むかつい」てしまい、攻撃せざるをえない。たとえ「情けない」という印象を与えなくとも、「タフ」の美学=倫理を「かかわりあい」のなかで「みんなとともに」生きない者は「まじわらない」「悪い」「むかつく」者とみなされ、いじめの対象となる。

集団生活のなかで「タフ」がしみついた者は、不幸の平等主義に対する違反には敏感になる。苦労して「タフ」になってきた者は、苦労をともにしあうことなく世間に対してうまく自他境界を引くことに成功して幸福そうに見える者を目の当たりにしただけで、被害感と憎悪でいっぱいになる。そしてチャンスがあれば、痛めつけてやろうと思う。学校の集団生活は、「苦労をして意地が悪くなった」者たちに、そのようなチャンスをふんだんに与える。

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