いじめの全能筋書の三つのモデル

------------------------------------------------------------------
内藤朝雄『いじめの構造』より

いじめの全能筋書の基本形は、実際の場面で、具体的ないじめとして姿をあらわすとき、次の三つのタイプに分かれる。

1.「破壊神と崩れ落ちる生賛」
2.「主人と奴婢」
3.「遊びたわむれる神とその玩具」

ちょうど、絵画の多種多様な色彩が、色の三原色が合わさることから生まれるように、さまざまないじめの全能筋書は、これら三つのレパートリーの組み合わせからなっている。そして、いじめのさまざまな形態も、この三タイプの組み合わせから説明できる。これらのひとつひとつを説明しよう。

1.「破壊神と崩れ落ちる生賛」
これは、圧倒的な力によって被害者を一気に破壊するパワーを楽しむ筋書である。加害者が力を加えると、被害者は、その爆発的な勢いによって崩れ落ちる。前掲【事例7・軍団】の少年たちは、もっぱら、このタイプの全能筋書に集中し、特化している。つまり彼らは、ひたすら、殴って、殴って、殴って、生きている。それに対して、【事例8・主人と奴隷の弁証法】や【事例9・葬式ごっこ 自殺まで】では、この「破壊神と崩れ落ちる生贅」は、以下で説明する別のタイプ(「主人と奴婢」、「遊びたわむれる神とその玩具」)と混ざり合ったり、別のタイプに切り替わったりして、ダイナミックに展開している。

2.「主人と奴婢」
「主人と奴婢」は、命令−使役の筋書が、いじめの全能筋書として転用(流用)されたものである。通常、誰かを奴隷扱いするとき、使利にこきつかうことと全能感を得ることは、一石二鳥になっていることが多い。しかし、(本来の?)実用的な奴婢使用の論理と、いじめの全能を達成するための「主人と奴婢」の筋書は、それ自体としては、別のものである。

たとえば前掲【事例9・葬式ごっこ 自殺まで】で、加害グループは、被害者がエレベータを使うのを禁止し、マンションの八階や二〇階から、階段を使って使い走りをさせた。このことを例にして考えてみよう。エレベータの使用を禁止すると、買いに行かせたモノが手に入る時間が遅れる。利便性という観点からはマイナスである。かつて人間が人間を財産として所有した時代の「主人」が、とくに忙しいときに奴婢を用いる場合はどうだろう。余計な苦痛を与えることによって奴婢が消耗してしまうことは避けるのではないか? 彼らであれば、使い走りをさせるときに、エレベータに乗って早くモノを買ってこい、と命令するであろう。

しかし、いじめの全能筋書としての「主人と奴婢」の場合は、その内的論理が異なっている。いじめの全能筋書を達成するために奴婢を用いる主人(いじめ加害者)にとっては、奴婢が肉体的・精神的に損耗することが必要条件となる。すなわち、全能筋書の〈具材〉としての奴婢は、人間存在そのものがトータルに主人の「もの」になって、こころもからだも、打てば響くように全人的にコントロールされることを、その生々しい疲労や消耗(壊れゆく存在の悲痛)によって、証さなければならない。被害者に人間としての余裕を与えることは、いじめの全能筋書の基本を台なしにする。

ひらたく言えば、いじめられる身分の者は、「余裕をみせて」いてはいけない。いつも「ひいひい」生きることによって、その「ひいひい」の内側から、主人の全能のパワーを、打てば響くように照らし返していなければならない。このように考えれば、エレベータの使用を禁止するのは、加害グループにとって、しごく当然であることが理解できるだろう。

金をおどし取る場合などでは、金銭的な利益追求が占める割合が大きくなるが、それと同時に、おどして「ひいひい言わせる」ことによる他者コントロールの全能筋書が追求される。得になることで楽しむのである。

3.「遊びたわむれる神とその玩具」
悪ふざけによって、通常の条理を「ありえない」やりかたで変形させることも、世界を左右する無限のいとなみとして、全能筋書となる。全能感は、笑い転げるというかたちで享受される。

この遊びたわむれる神の全能筋書自体は、もともとは、いじめの全能筋書とは異なるものである。全能筋書のなかでも、もっとも愛すべきものたちであるといってもよいだろう。ところがこの愛らしい遊びの神々は、「自分の手によって悲痛とともに存在が壊されていく他者と、その他者の壊れゆく息づかいを享受しながら完全に他者をコントロールする自己」といういじめの全能筋書を具現するための「部品として」流用(転用)されるやいなや、陰惨な顔つきに変わってしまう。

そして、いじめの全能筋書として転用された「遊びたわむれる神とその玩具」が、欲望のひな型になることによって、いじめに最悪の「豊かさ」がつけ加えられる。実際、自己の目標達成の障害となる相手の意志を粉砕するための手段として、威嚇や苦痛を与える(簡にして要を得た!)戦略的な攻撃と比較してみると、いじめの迫害様式はあまりにも手が込んでいる。よくここまで思いつくものだと感心せざるをえないいじめの様式を、加害者たちは創造する。

たとえば、手に積ませたおがくずにライターで火をつける。足をはんだごてで×印に焼く。ゴキブリの死骸入り牛乳を飲ませる。靴を舐めさせる。便器に顔を突っ込む。性器を理科の実験バサミではさんだり、シャープペンシルを入れたりする。被害者が死んでもおかしくないような激しい暴力にも、歌や奇妙な命名や振付がしばしば付随する。

【事例8・主人と奴隷の弁証法】や【事例9・葬式ごっこ 自殺まで】に、もう一度、目を通していただきたい。これらの事例では、「遊びたわむれる神とその玩具」の多彩なかたちがにぎわっている。これらのかたちの多くは、世界中のさまざまな地域に共通した定型でもある。たとえば、ヒモでクビを縛って人間を四つんばいにして犬にする、草を食わせる、といった定型は、ノルウェーのいじめ研究者オルウェーズによる事例【事例17・クラスメイトの玩具】にも見られる。

極度に相互依存的な関係

さて、いじめの全能筋書を具現する〈よりしろ〉として被害者が使用される、ということについて、さらに考えていこう。いじめ被害者は、内部に侵入しかきまわし・その内側から自己の全能を顕現しつつ生き直し・自分が癒される、といったことのために加害者が使用する〈容れ物〉である。

いじめ被害者が、適切な方法で、この子宮のような〈容れ物〉として機能することで、加害者の体験の構造が救われる(かのような錯覚が生じる)。いじめを生きる者たちは、全能筋書を具現して自己を補完する他者、自己の延長として情動的に体験される〈容れ物〉としての他者を必要としている。この体験構造ニーズが、いじめの執拗さをもたらしている。

右に挙げた三つの全能筋書においてはヽ自己と他者(よりしろ)は極度に相互依存的である。たとえば、「生贅」が、意のままに「崩れ落ち」てくれなければ、「破壊神」は「パワー」の感覚に満たされることができない(「破壊神と崩れ落ちる生贅」)。

「奴婢」が打てば響くように応え、意のままにならなければ、「主人」自体が崩壊してしまう(「主人と奴婢」)。

「玩具」が、打てば響くように、鮮やかな形態変化を起こしてくれなければ、「砂遊びをする神」は死ぬ(「遊びたわむれる神とその玩具」)。

このような意味で「完全にコントロールする」自己は、自己の存立に関して、「完全にコントロールされる」他者からの応答性をあてにしている。これらの応答性を資源とした全能筋書の具現ができない場合、全能感によってごまかしてきたあの自己のまとまりの感覚の〈欠如〉、つまり不全感が露呈してしまう。

身分が下の者が思いどおりにいじめられてくれない場合、この不全感が露呈することによって加害者のほうが被害感を感じ、激怒する。全能筋書の具現を期待していた者がそれを「はずす」ことに対しては、〈全能はずされ憤怒〉が生じる。この憤怒が生じているときには、特に「破壊神と崩れ落ちる生贅」が誘発されやすい。

〈全能はずされ憤怒〉は、他人が「思いどおりになってくれないせい」で崩壊しかけた自己のまとまりの感覚を、その他人を破壊する「破壊神」の感覚で再活性化させようとする、実に手前勝手な「自己修復」の営為でもある (ただし、「破壊神と崩れ落ちる生贅」が惹起したからといって、〈全能はずされ憤怒〉が起こっているとは限らない)。

TOP [ニート・ひきこもり・不登校(登校拒否)の原因と親]

inserted by FC2 system