社畜を製造する「去勢」教育

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佐高信×宮本政於『官僚に告ぐ!』より

「去勢教育」の悲劇的成果

宮本 日本が民主主義国家でないという証明はとても簡単です。国民に選ばれていない人、つまり官僚たちが中心になって立法や政策にかかわっている。本来、国民の代表である政治家は蚊帳の外です。これだけ見ても日本には民主主義が浸透していないといえる。それに官僚の側からすれば民主主義なんて育ってもらっては困るんですよ。

僕は、今の日本を「去勢社会」だと見ていますが、心理的に去勢された国民のままでいることが、官僚から見た理想的人間像なのです。なぜ「去勢社会」と呼ぶか。それは日本の教育を見ているとよく理解できます。例えば、教育現場で何事にも挑戦する子どもたちを育てていこうとはしていませんね。国民一人ひとりが自由でかつ秩序を保っていれば、お役所はいらなくなる。一方お役所は、挑戦心が旺盛な国民はいつか組織の調和を乱すに違いないと考える。そうすると「個人」を大切にする考え方はむしろ邪魔なものになってくる。そこで、教育方針の基本として国民一人ひとりを心理的に去勢する方向に持っていった。

精神分析の観点からいえば「個を確立」させないような教育が「去勢教育」です。そうはいっても、ある程度までは「個」は育ってくれなくては困ります。まったく「個」が育たないと幼児性ばかり際だってしまい、官僚からすれば負担になってしまいますから。だからお上の言うことをよく聞く従順なしもべ、いや羊といったほうがいいかな、この程度ぐらいにまでは「個」が育ってもかまわないのです。

比喩ですが、官僚は「日本国家が外貨を稼ぐために、きみたち、羊毛だけはたくさん生産してくれ。でも羊飼いに逆らうような行動は取るなよ、囲いの中でおとなしく草を食べていればいいのだ」と国民に注文をつけているようなものです。

佐高 その外貨を稼ぐためには外国企業と競争しなくてはいけないんだから、挑戦心や闘争心、チャレンジ魂といったものがなければ太刀打ちできないわけだけどね。私は中小企業の社長を集めた商工会議所の講演なんかで「社長室の机の後ろの壁なんかに“和”と書いた色紙を飾ってある企業は長くない」とよく言うんです。すると、だいたい七割ぐらいの社長の顔色がさっと変わるの。統計的にも「わが社のモットー」の七割が「和」なんですね。「和」というと聞こえはいいけど、つまりは争わない、冒険しない、調和を第一にするということでしょう。企業の姿勢がそうだから、それをコントロールする官僚は非常にやりやすくなる。

宮本 義務教育の中でも「和」は強調されていますね。教室で先生は「みんな仲よくしましょう」とは教えても、「何事にも挑戦しましょう」とは教えない。とくに師弟関係にあっても「相手の考え方に疑問があったらどんどん挑戦するべきだ」などとは決して教えませんね。日本の教育の原点でもある、「忠」とか「孝」の考え方が崩れてしまいますからね。

日本「道」と官僚の自殺

宮本 去勢の話に戻りますが、「去勢教育」を受けるとどうなるかと言うと、まずイエスとノーが言えなくなる。仕方がないとあきらめる。我慢しようと考える。しようがないと思うようになる。本質はどうでもよく、ブランドものさえ身につけられればそれでハッピーである。みんな同じであれば安心する。素直なことを評価する。

まあ、こんな症状が出てくるのです。その結果は一倍総「盆栽」化です。国民はもっている才能、独創性を官僚たちから摘まれてしまい、みんな同じに見える「盆栽化現象」の中に取り込まれていく。ですから官僚と官僚制度を変えるには、多少、時間がかかるかもしれませんが、教育改革が一番大きなポイントになると思っています。

それならどのような部分から改革を始めたらよいか。まず中学や高校にある部活動を廃止すべきです。というのも、部活動に参加することによって年功序列という制度が子どもたちの頭に叩き込まれますよね。一つの枠組みにはまることも徹底的に教え込まれます。中学生でも学年が二つ上なだけで「センパイ」と呼ぶ。また「コーハイ」が「センパイ」にパンを買いに行かされたりもする。そこは、能力や人格など全く無視された世界です。このような状態に長い間おかれると、人間は自然と心理的に去勢されてしまいます。

「先生君主」の日本と教師に挑戦するアメリカの学生

佐高 「選択社会」というのは、つまり「自己責任社会」のことですね。自分の責任で選んで、だまされたら自分が悪い。もちろん、だましたやつの責任を追及する権利はあるけれども、だまされたことが「清く美しい」ことには絶対ならない。そのように教育を変えていかないと、官僚国家も小さくなりませんね。

宮本 もう一つ、日本の社会には「疑うことはいけない」という信仰のようなものがあるような気がするんです。誰でも、初対面の人については何の情報も持っていませんね。「いつでも人を見たら泥棒と思え」と教える必要はないけれど、「いつでも誰でも信じなさい」と教える必要もないんですよ。相手の言動や身振りがおかしかったら、疑って当然なわけです。よしんば、その人が悪い人でなかったとしても、その疑いが少しずつ解消されることによって、お互いの信頼関係も生まれてくる。その過程では衝突や軋蝉も出てくるでしょうが、お互い生身の人間なんだからぶつかるのは当たり前なんですね。そのことを前提にしようとしない教育にはほころびが出てくると思いますね。

佐高 学校の先生が教室で一番たくさん言うセリフは、今も昔も「静かにしろ」ですよ。「静かにしろ」というのは、「先生に注目して、先生の言うことをききなさい」ということなんだね。アメリカの授業では、わからないところがあると、生徒はすぐ手を挙げて質問しますね。でも、日本ではそれがない。先生は授業を一通り流して、残った時間を質問に当てる。それは「君たちの質問の権利は認めるよ。でも、教師の授業に疑いを持っちゃいけないよ」という姿勢の表れでしょう。

宮本 そうなんです。授業では「黙って信じなさい」と教えるんですね。僕は今でも覚えているのですが、医学部に入って間もなくの授業で、先生が黒板に「掻岸感」と書いたんです。要するにかゆみのことですが、僕は読みも意味もわからない。そこで隣の学生に間いたら彼もわからない。「なぜ質問しないんだ」と僕が小声で言っても黙っている。それで僕が手を挙げて問いたら、先生は「かゆみだ」と簡潔に答えて、それでおしまいです。ところが、僕が質問したことにみんなびっくりしたんですよ。質問は先生に許されてからするもんだと思っていたんですね。

数年がたって、僕は教わる側からアメリカで教える側に回りました。僕がある大学の医学部で講義をしていると、学生が「僕の読んだ医学書には、宮本先生が教えたこととは違うことが書いてあった。どちらが正しいのか」と挑戦してくるのです。そのときは僕も困りましたが、知らないから正直に「次の時間までに調べてくる」と答えました。僕の宿題になったわけですが、いろいろと調べたり考えたりしたことが、逆に僕自身のプラスになりました。この学生のように、無条件に教師の言いなりにならないで、疑いを持ったら挑戦していく。そういう姿勢を尊重せず、そういう学生を受け入れないのが日本の教育制度の最大の欠陥だと思います。日本では先生は絶対で、神聖な存在になっているようです。

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宮本政於『お役所の精神分析』より

「去勢教育」が日本人をおとなしくさせている

いろいろと質問が多く、答えていると食事が目の前にあることなど忘れてしまう。せっかくのパスタランチも、こう質問攻めでは味わうひまもない。なんだ、彼らも日本人の多くと同じで仕事中毒にかかっている、よっぽどそう言ってやろうかと思っていると、
「さきほどから去勢教育という言葉が出てきていますが、薬害エイズの問題とどのように関係してくるのですか」
「去勢教育を受けるとどのような人間となるのですか」
とまたまた質問が降り注ぐ。もう、これではランチを楽しむどころではない。彼らの旺盛な好奇心に負けて、今日はダイエットをする日にしよう。そう考えることにした。そして夕飯には、間違いなしにおいしいパスタ料理を食べよう。そう発想を転換させて、彼らの質問にじっくり答えることにした。

 は私で、は質問者たちである。
 まず「去勢教育」を受けるとどうなるか、そこからはじめましょう。その後に、この教育がどのように薬害エイズに影響を及ぼしたのかを説明します。

去勢教育を受けると体制に挑戦しない。反抗しない。年功序列に基づいた上下関係は壊さない。不満を言わない。フラストレーションがあっても我慢する。個人を捨て組織のために隷属する。このような人間がつくられます。
 なるほど。アメリカ人とは正反対の行動様式ですね。でもそんな生活がハッピーですか。
 私は去勢社会を維持するために、自分のエネルギーをこれっぽっちも使う気はありません。でも、幼いころから去勢教育を施されれば、国民は人間ロボットとなってしまい、去勢された状況に不満を持たなくなるのです。
 私はアメリカ上院議員の秘書をしていますが、ワシントンを訪れる日本人、とくに議員の随行員には人間としての活気が見られませんね。上院議員と写真におさまることばかり考えていて、自分の意見などだれも言いません。また日本の議員は本質をつくような発言はしません。通訳を用意するだけムダだといつも思ってしまうのですが、あのような行動様式もやはり去勢教育の結果なのですか。
 写真におさまることがワシントンを訪れた目的である人は、間違いなしにタマ抜きされた人たちです。でも、官僚の側からすれば、こうした去勢された人間こそ期待される人間像であり、日本人として生きる道なのです。
 我々からすれば「死んでいろ」と言われたにも等しいのですが。
 管理する側からすれば、半分死んだような人々のほうが管理しやすいでしょう。しかもそのような人間ばかりの集団だと、日本社会も変化しなくてすむ。官僚の原点である現状維持は守られるのです。だからこそ去勢教育は重要なのです。

「盆栽」の芸術が教育に!?

 官僚はどのように日本国民を去勢しつづけてきたのですか。
 人間は成長するにつれて「個」も成長します。だから去勢された人間を育成するには、個が確立しないようにしなければなりません。ここが教育のキーポイントなのです。
 具体的には?
 日本の多くの学校では、公立も私立も含めて、日常の勉強を通しても部活動という教育外の生活を通じても消耗することが奨励されています。ところがこの消耗が生徒たちを枠の中におさめる結果となるのです。消耗を強いられ、先生の言っていることに疑問をはさむことなど、とんでもないことだ、と教え込まれますが、なにしろ消耗しているから先生に疑問を投げかけようという気力すらなくなるのです。このように疑いを持たない、そして従順である、ということは権力に刃向かわないということで、これこそ心理的去勢の象徴でしょう。
 教育の原点がアメリカとは違いますね。アメリカでは、教師でも同僚でも、相手が発した意見は、まず疑ってかかれ、そう教えられます。そして、それに挑戦するように訓練されます。
 ところが日本では、先生は侵してはならない神聖な存在なのです。先生の考え方に挑戦しようものなら、礼を失する、という批判を浴び、場合によっては体罰さえ食らうところもあるぐらいです。
 体罰とは個人の尊厳を無視した行為でしょう。それが日本の学校では当たり前なのですか。
 当たり前とまでは言いませんが、それほど問題視されません。逆に教育熱心な先生だ、とほめられることもあるのです。体罰の結果、生徒が死んでしまったとか、重傷を負った、こういう場合は、先生が非難されますがね。
 それは当たり前でしょう。そもそも体罰は傷害行為であり、犯罪ですよ。
 日本では犯罪だとの認識は薄いですよ。体罰が問題視されないで教育現場に残っている、この例ひとつとっても日本社会で人権という概念が根づいていないことが証明できます。
 日本には盆栽という芸術が存在していますね。官僚はこの盆栽にヒントを得て去勢教育をはじめたのではないでしょうか。
 なかなかおもしろい視点ですね。おっしゃる通り、日本人がみんな盆栽のようになってきていることだけはたしかです。なにしろ日本にいると、個人としての才能、独創性、創造性はまず摘まれてしまいますからね。
 自由を尊ぶ宮本さんからすれば、日本社会はとても息苦しい世界でしょう。
 そうですね。ただこの息苦しさから抜け出る必要がある、そう思っている人も多いのです。だからそれらの人たちとスクラムを組んで文部省教育の欠陥を指摘していくことは楽しさに通じます。

「不安感と現状維持」で右往左往

 ここで「去勢教育」がどのように薬害エイズ事件に影響したのかを説明します。去勢されてしまうと、リーダーシップをとることができません。また、個が確立されませんから、不安、それも見知らぬものに対する不安が出てきて現状維持を好むようになります。こうした不安感が、官僚制度内で「横並び」「前例」「継続性」「コンセンサス志向」などの考え方に変化するのです。その証拠に厚生省を含め、ほとんどの大臣はだれもリーダーシップをとっていないでしょう。

薬害エイズ、このような重要な問題が現れても菅直人氏が大臣になるまでは、だれも昔のファイルすら見ることができなかったのです。これが去勢でなくて、なんと言ったらよいのでしょう。去勢されているかいないか、それが一番顕著にわかるのが、危機に面したときです。去勢された人は危機に面すると右往左往するだけで、誰もリーダーシップをとることができません。一九八三年当時、郡司課長はリーダーシップをとれなかったではありませんか。

 薬害エイズ事件と日本の教育方針が、関連しているとは考えてもいませんでした。

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