「本音」のディベートを怖がる社畜

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宮本政於『官僚の官僚による官僚のための日本!?』より

日常生活の「本音」と「建て前」の意味

これまでの説明でわかっていただけたと思うのですが、日本人の中に「独立心」が育つということは、官僚がよしとしてきた国家観を根底からくつがえしてしまうことになるのです。文部官僚が「独立心」を育てようとしないのは当然のことなのです。

「独立心」を育てようとしない教育方針は、日本ならではのコミュニケーション・スタイルをつくり上げることになりました。それは自分からけっして「ノー」と言わず、また相手からも「ノー」を言わせないようにするというものです。クリントン大統領は二年ほど前、エリツィン大統領と会談した際、日本人の「イエス」は「ノー」の意昧だと忠告しましたが、このアドバイスは正しかったのです。

しかし、現実的には「ノー」を言わずに社会生活を行うことはできません。そこで発達したのが「本音」と「建て前」の使い分けです。「我々欧米社会でも『建て前』と『本音』の使い分けをします」そう反論する人もいるでしょう。それは一種の外交的な人間関係の中で行われている対応で、毎日の生活に密着したものではないと思います。しかし、日本では「ノー」、すなわち人間の中にある攻撃性を引き出さないようにするために「建て前」と「本音」が使われているのです。

日常生活において「本音」が前面に出されたことを考えてみましょう。「本音」の議論は必ずと言ってよいほど反論を招きます。欧米諸国では「本音」を語ることはディベート(論争)へとつながります。こうしたディペートを行えるからこそ、客観的な方向性が出てくるのです。

ところが、日本でディベートを行うと、相手によっては人格を否定されたように思ってしまいます。反論された相手は傷ついてしまうのです。これも「独立心」が育っていないから起こる現象で、「独立心」が育っていれば、自分の意見と自分の人格とは別のものであって、意見が対立したからといって、傷ついて相手をうらむとか、けんかに発展するようなことはけっしてありません。

「建て前」と「本音」がどう定義されているのか、英和辞典で調べてみました。そこにはこう書いてありました。【「建て前」とは公的姿勢とか主義・方針とか原理・原則を言う。そして「本音」は真意とか隠された動機などである】

全体主義制度をささえる意識構造

イギリスの作家ジョージ・オーウェルは、著書『1984年』(早川書房)の中で、「本音」と「建て前」に似た概念を「二重思考」と名づけています。この「二重思考」とは、二つの矛盾した信条を同時に心にいだき、いずれをも受け入れることにあるのですが、この「二重思考」は、国家が国民を管理するという全体主義制度を維持するために存在しているのです。

国民が自分の生活している社会の矛盾に気づき、それに対して「おかしい」と思うようになり、言葉としてまた行動として主張すれば現存している日本的ムラ組織は崩れ去ってしまいます。官僚の側からすれば、体制を維持するためにも、国民が「おかしい」などと疑惑の念を表立って表現してもらっては困るのです。なぜ私が「二重思考」と「本音」と「建て前」の類似性に興味を持ったのか、聴衆のみなさんもお気づきになったかと思います。日本の官僚は行政、立法、司法、この三権力を一手ににぎっています。日本は官僚独裁国家に近いと言ってもよいと思います。この官僚主導を維持するためにも「建て前」と「本音」という、ジョージ・オーウェル流に言えば「二重思考」は重要なコミュニケーション・パターンなのです。

「建て前」と「本音」はとくに日本の官僚組織の中で重視されています。なぜ官僚たちが「建て前」と「本音」を重視するのか、それは官僚が「調和」を重んじることと関連があるのです。

日本の官僚は「性格的にもろい」存在

もう一度「調和」の概念に目をむけてみましょう。日本的「調和」を客観的に見ると、とても興味深い事実につきあたります。テネシー・ウィリアムズの有名な戯曲に『ガラスの動物園』(新潮社)があります。この主人公にローラという女性がいます。みなさんもご存じのように、彼女の性格はとてももろく、「ノー」のひとことで、いともたやすく傷ついてしまいます。ここで私は日本の官僚をローラに重ねてみました。すると、官僚とローラには類似性があることに気がついたのです。似ている部分とは、「性格的にもろい」という部分です。ローラは独立心に欠けていましたが、日本の官僚も独立心について焦点を当ててみると、国民以上に成熟していません。

どこの国でも官僚はみずから責任を取らなくてもすむようなシステムをつくっていると言ってよいでしょう。でも日本では、その無責任体制が、日本全国に浸透してしまっているのです。なぜ責任を取らないシステムがこれほどにまで浸透してしまったのでしょう。それは、独立心を育てないようにした日本の教育の結果なのです。

性格的にもろいという部分に戻りましょう。私は長い間、精神分析医としてニューヨークで教鞭をとってきましたが、その経験から、性格的にもろい人は「ノー」を避ける傾向が強いという事実を発見しました。こうした患者たちはあまりにも脆弱なプライドのため「ノー」と言われることを嫌うのです。「ノー」を言われることによってプライドが粉々になってしまうのです。性格的なもろさを防ぐためにはどうしたらよいでしょう。その答えが「建て前」と「本音」の使い分けにあるのです。

官僚は「本音」を公の場ではけっして語りません。「建て前」しか言わないのです。批判を避けるためです。批判されなければプライド、いや虚栄心と言ったほうがよいのかもしれませんが、そのもろさは壊れずにすむわけです。

官僚たちだけのコミュニケーション

人間として生活をいとなむ場合、「建て前」の世界だけではとても窮屈で息が詰まってしまいます。それでは官僚はどのようにして「本音」を発散させるのでしょう。批判や反論が大目に見られる、酒の席がその場なのです。多くの官僚は、行動力はともかく、優秀な人が多いですから、「本音」を語り変革を求める人も結構います。そうした人にとって、変革を求めることがむずかしい官僚制度の中で生活をすることはフラストレーション(欲求不満)以外のなにものでもありません。フラストレーションの解消の場として飲み会やカラオケが存在しているのです。

ただ、そうした場は、結局はグチをこぼす場でしかなくなってしまいます。このように「本音」と「建て前」を客観的に分析していくと、その裏に隠れた重要な部分が見えてきます。それはグチというスタイルをとることによりフラストレーションは解消できても、制度には変化をもたらすことがないという部分です。日本株式会社という組織体は官僚によって運営されています。その基本は現状維持にあります。そして、「本音」と「建て前」の使い分けは、現状に大きな変化をもたらさないのです。

「大人」と呼ばれるために心の抑制を

なぜ「本音」と「建て前」を使い分けるのか、これを精神分析学的に考えてみましょう。人間の精神構造の基本に衝動という現象があります。衝動は攻撃性と性的なものに分類されます。

「本音」と「建て前」の使い分けは人間関係の中に「攻撃」という衝動を持ち込まないために使用されているのです。「本音」が日常生活の中にしょっちゅう顔を出していたとしましょう。当然のことながら議論や口論が起こります。人間の持つところの攻撃性が出てくるわけです。

欧米社会では「本音」での対応はごく自然なことです。ところが、日本では「本音」は攻撃性を引き起こすため、できるだけ「本音」を出さないようにします。「建て前」が幅をきかしているのはそのためです。「建て前」は、とりあえずは集団が共有していて当然である、という価値観とされていますから、「建て前」を使っていれば攻撃性は出てこなくてすむのです。

日本人の人間関係に、お互いを鏡のように映しあうという、「鏡像関係」の設立という特徴があります。これは日本人を理解するためにはとても重要なことなので、頭の中に入れておいてください。前に述べた「甘え」とも深い関係があります。また「鏡像関係」は攻撃性を避ける手法でもあるのです。「鏡像関係」をつくり上げられれば、双方の間に存在している境界がとりのぞかれます。「鏡像関係」ができ上がることは、あなたと私は同じです、ということになり、それは「一心同体」という概念へと発展するのです。

自分が相手の延長線上にあり、また相手が自分の延長線上にあるような人間関係ができ上がれば、鏡をのぞき込んでいることになり、相互に存在していた境界はなくなり一体感が生じます。そしてこの一体感こそ日本的ムラ組織を保つための基本でもあるのです。日本人は「本音」をぶつけあう事態をできるだけ避け、お互いの感情に大きなひびが入らないように努めますが、この行動様式こそ、一体感を保つには必要不可欠なのです。そして、「建て前」と「本音」を上手に使いこなしても、心にまったく葛藤が起こらない人こそが、真の「大人」と呼ばれるのです。

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