「精神主義」を好む社畜

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宮本政於『お役所の御法度』より

「三〇度で暑いと言うのは宮本課長だけ」

ある朝、一〇時ごろに出勤して自分の机の横に置いてある本を見て驚いた。湿った空気を吸って、本がたわんでいる。検疫所はその業務の性格上、多くは海に面したところに建てられている。だから窓から入ってくる空気は、どうしても湿気を帯びている。本がたわむことは仕方がない。でも湿気も暑さも一九九四年(平成六年)の夏は格別だった。酷暑となる兆候が現れてきた六月のある日、「蒸し暑くてたまらない」そう思って温度計を見ると室温は三〇度を超えている。私のオフィスは二階の、しかもいちばん日当たりのよいロケーションにある。明るくていいのだが、おかげで屋根からも、そして窓からも太陽のエネルギーがさんさんと降り注ぎ、当然室温は他の部屋に比べて高い。涼しいところで仕事をするほうが効率が上がる。そう信じている私は、何の疑問も感じることなくエアコンのスイッチを入れた。ところが小一時間もすると管理課の職員が現れて、スイッチを切っていく。以下はその職員とのやりとりである。

「なぜ切るのですか」
「冷房は、七月一日から九月三〇日の期間にのみ運転するとの決まりがあります」
ところが、そういう係長の額はうっすらと汗ばんでいる。
「今日は湿度も高く蒸し暑いでしょう。だからエアコンを入れたのです。あなただって暑そうですよ」
「これぐらいの暑さなら我慢するべきです。総務課としては冷房が必要だとの判断をしていません。それに年間の冷房予算は決まっているのです。ですから七月一日からという規則を守っていただきたいのです」
いかにもお役所的なコメントである。
「でも温度計をごらんなさい、三〇度を超えています。暑いという事実が現実です」
「暑いと言っているのは宮本課長だけです」
「他の人も暑いと思っています。ただ口に出さないだけです。だからこそエアコンが入っても、誰も文句を言わないのです」
「総務課ではそのような判断ではありません」
「でも総務課は別の棟にあるでしょう。日の当たり方も違います。当然、室温も異なるわけです。たとえば一階の食品監視課はここほど日が当たらないから、温度も多少低いでしょう。エアコンを入れる場合、部屋の温度に応じた、個別の判断がされてしかるべきではないでしょうか」
「そういうわけにはいきません。検疫課だけを特別にはできません。検疫所職員全員が暑いと言い出せばエアコンを入れるかどうかを考える必要が生まれるかもしれませんが、たったひとりの要望では冷房を入れるわけにはいきません」
「全員が暑い、そういう認識が示されない限りエアコンは使用してはならない、そう言っているわけですね」
「まあそうです」
「しかし、日本社会は、言いたくとも言わない人のほうが圧倒的に多いのです」
「皆さんが要求してくれば、我々だって考えざるを得ません」
「でも、規則と掟の中で縛られている人たちは、そう簡単に自分の意見を言いません」
「いずれにしても、私のところに冷房を入れてくれという要望はきていません」
この係長、あくまでも規則を守ることが大切だと主張する。
「これまでの経験からすると、エアコンを入れる期間内であっても、エアコンを作動しなくてすむ涼しい日もありました。だから、例外日があってもさし支えないと思うのですが」
「通常、うちでは二八度以上あっても期間外にエアコンは入れないことになっています」
「役所が決めているエアコンの設定温度の二八度といえば汗が出る温度です。それに、涼しいと感じる温度には個人差があるのですから、二八度とは一律的にすぎませんか。統計でも取ってみたらどうです。それに、二八度以下でも、エアコンが入っているところが圧倒的に多いのですよ」
「官庁はみんな同じように、エアコンを入れるのは二八度以上と決まっています。神戸検疫所でもそれを遵守しているだけです」
「しかし、どうしてそんなに規則第一なのですか。霞が関も他の検疫所も、いったんエアコンが入ってしまえば、そんな規則を誰もきちんと守ってはいませんよ」
「他の役所は他の役所、うちはうちです」
そこで、「おや、急に神戸検疫所の独自性が出てきましたね。独自性は個人主義にも通じますが、そのような発想を尊重するのであれば、各階によって室温が違うことを考慮に入れ、個別な対応を可能としたらどうですか」
彼は、私のコメントは無視して、「規則を守るのが役人の仕事です。課長もそのひとりですから決められたことには従ってください」と言ってくる。
そこで多少違った角度から攻めてみた。

「規則に従ってください」

「ところで、大きな台風が来た。そして予算化されている以上の被害がでたとしましょう。しかし、あなたの考え方だと、それでも被害の救済は決められた予算枠で行います。そういうことになりませんか」
「そんなことは私は言っていません。台風と冷房とはまったく異なった内容です」
「表面的にはそうです。でも私がここで言いたいのは、もっと物事にゆとりのある対応をしたほうがいいのではないか、ということなのです。去年(九三年)は冷夏でしたね。当然エアコンが作動された時間は、暑い年に比べれば少なかったはずです。だからたとえば、今年のエアコン作動日が多少、多くなったとしても問題はないでしょう。七月から九月まで、規則第一という発想よりも、もっと臨機応変な対応が求められていいのではないですか」
「国の予算は年度ごとに決まっています。冷房の予算も使える限度が設定されてます」
「そんなことは私でも知っています。だったらききますが、霞が関では、あなたが言っている期日以外でもエアコンが入っていたこともありました。それはどう説明します」
「ここは神戸検疫所で、霞が関ではありません」

またまた違いが強調される。今日は集団の調和とか整合性に重きを置いたかというと、明日は役所はみんな違った組織体だと言ってくる。お役人と議論をしていると、ポリシーを貫きながらの議論ではなく、規則を守らせるためいかに相手を丸め込もうかとなり、いつまでたっても埓があかない。

「JRでもデパートでもエアコンは入っています。なんで検疫所だけがそんなに律儀に規則に従わなければならないのですか」
そう攻めてみると、「JRと検疫所は違います」と逃げられてしまう。
また、「日本の役所ではみんな冷房は七月一日からと決まっているのです。税金を使っているのですから多少の我慢も必要です」
ムダの積み重ねの上で生活をしているのに、急に納税者側の立場となる。
「効率よく仕事をすることが、税金の節約になるのではありませんか」
「そうですね」
驚くべきことに、彼はこれには同意する。そこで、「室温にも臨機応変に対応し、居心地のよい環境を与えれば、仕事も効率的に進む。そうすれば、ムダな残業も少なくなり税金のムダ遣いも少なくなるでしょう。『暑いのは我慢するべきだ』という意見は、一見、正しそうに聞こえますが、よく考えてみると、犠牲の精神に則った発想です。我慢の精神が、決して税金の効率的運用につながるものではありません。逆に、我慢の精神は社会をとても非能率な方向へと導いているように思うのです」

私の論理展開にいらいらしてきた係長は、「予算の効率的運用をどのように運ぶかは総務課の仕事です。そして最終的には所長の決定事項です。宮本課長は検疫課長ですから、冷房のことなど口を出さないでください」次は、お役所独特の縄張り意識の重要性を説く。
そこで、「『汗をかきながら、我慢をしながら仕事をする』これが善だと思っているのではないですか。だからこそ『暑いのも我慢しろ』との発想となると思うのです」
すると、「私はただ規則に従ってください、そう言っているだけです」いっこうに噛み合わない論議に、課員一同、聞き耳を立てている。

「『暑いのを我慢しろ』という発想と『日の丸弁当さえあれば、後は精神力だ』という兵帖を大切にしない戦前の精神主義は、根元は、犠牲の美学にあります。しかし、そうした我慢の精神が敗戦を招いたのです。戦争も仕事も効率よく行えば得るものは多くなります。ところが、我慢の精神の徹底は、効率的に物事が運用されているという幻想を国民に植えつけるだけで、実質的には生産性を落とす最大の原因となるのです」「課長の持論はもう結構です。とにかくエアコンを入れるのはやめてください」彼はそう言い放って検疫課を出ていった。

宮本 日本の社会に殺されかかったという点では、野茂が二つの典型だと思います。野茂はごたごたの末、近鉄をやめて大リーグのドジャースに入った。そのいきさつを問題にする報道もありましたが、マスコミは突っ込みが足りないですね。彼は、当時の近鉄の鈴木監督が掲げる「自分の肩を痛めても、ひじを痛めてでも練習をしろ」という精神論に真っ向から
挑戦したわけですよ。佐高 野茂も、近鉄に殺されかかった。宮本 自分の体をいたわることは人間として当然の行為ですよ。その当然のことを否定するところから始まっている精神論が人々を倒錯の世界へと導く。それが顕著に見られたのが、今年の正月の箱根駅伝でした。四区を走った山梨学院大学と神奈川大学の選手が棄権したでしょう。一人はすねの疲労骨折、T人はアキレス腱の炎症でした。山梨学院のエースの中村は痛みが襲ってからその後十キロも走り続けた。結局、監督が伴走車から降りて一緒に走りながら説得を続けてストップさせました。ストップさせるまでの時間が長かったことも問題ですが、僕は苦しみながら走り続ける彼に、旗を振ったり拍手を送り続けて励ました沿道の観衆にも違和感を覚えました。見てる側はドラマチックだからおもしろいかもしれませんが、根本的に勘違いをしていますよ。医者でなくても、顔をゆがめるほどの痛みが体の危険信号であることはわかります。だから一刻でも早く競走をやめさせ、治療に当たるべきなんです。それを「もっと頑張れ。そのうち痛みも消える」的な応援は無責任だし、応援する側に無意識的な精神論が染みついている証明でもあったと思います。そもそも精神論なんて占い師の世界ですよ。百歩譲っても神
道原理主義です。こうした考え方で応援して本人の選手生命に影響が出ても、応援した者が責任を負うわけではありません。野茂が置かれた状態も似たようなものだったと思うんですだから、彼はアメリカに出ていくしかなかった。

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佐高信×宮本政於『官僚に告ぐ!』より

宮本 日本の社会に殺されかかったという点では、野茂が一つの典型だと思います。野茂はごたごたの末、近鉄をやめて大リーグのドジャースに入った。そのいきさつを問題にする報道もありましたが、マスコミは突っ込みが足りないですね。彼は、当時の近鉄の鈴木監督が掲げる「自分の肩を痛めても、ひじを痛めてでも練習をしろ」という精神論に真っ向から挑戦したわけですよ。

佐高 野茂も、近鉄に殺されかかった。

宮本 自分の体をいたわることは人間として当然の行為ですよ。その当然のことを否定するところから始まっている精神論が人々を倒錯の世界へと導く。それが顕著に見られたのが、今年の正月の箱根駅伝でした。四区を走った山梨学院大学と神奈川大学の選手が棄権したでしょう。一人はすねの疲労骨折、一人はアキレス腱の炎症でした。

山梨学院のエースの中村は痛みが襲ってからその後十キロも走り続けた。結局、監督が伴走車から降りて一緒に走りながら説得を続けてストップさせました。ストップさせるまでの時間が長かったことも問題ですが、僕は苦しみながら走り続ける彼に、旗を振ったり拍手を送り続けて励ました沿道の観衆にも違和感を覚えました。見てる側はドラマチックだからおもしろいかもしれませんが、根本的に勘違いをしていますよ。医者でなくても、顔をゆがめるほどの痛みが体の危険信号であることはわかります。だから一刻でも早く競走をやめさせ、治療に当たるべきなんです。それを「もっと頑張れ。そのうち痛みも消える」的な応援は無責任だし、応援する側に無意識的な精神論が染みついている証明でもあったと思います。

そもそも精神論なんて占い師の世界ですよ。百歩譲っても神道原理主義です。こうした考え方で応援して本人の選手生命に影響が出ても、応援した者が責任を負うわけではありません。野茂が置かれた状態も似たようなものだったと思うんです。だから、彼はアメリカに出ていくしかなかった。

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