社畜を製造する「管理的集団主義」教育

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杉本良夫『進化しない日本人へ』より

集団主義を検証する(1)−−教育・家族

イヤリング少年

数年前、朝刊紙『エイジ』の片隅に、おもしろい記事が載っていた。郊外のダンデノング・ハイスクールでのもめごとである。ある男子学生が、学校の規則に文句をつけた。女子学生はイヤリングをつけても、なにも問題がない。しかし、男の子がイヤリングをつけるのは禁止されている。これは、男女平等の原則に反するではないか—というのである。彼は本心イヤリングをつけたかったらしい。三百数十人の男女生徒の署名を集めて、校則の改正をせまった。この学校では、校長先生が激怒して、この学生を「学校通信」で名ざしで非難するという加熱ぶり。こういう男女平等論は、ひとつの時代の象徴だ。

しかし、それよりも私の目を惹いたのは、この学生の母親が、新聞記者に語っている言葉である。「彼が自分の権利を守るために、いうべきことをいい、節度を守って行動したことを、うれしく思います」このお母さん、どこにでもいる普通のおばさんだが、こういう立場を、その後も一貫してとりつづけている。学校で自分の子どもが注意を受けているからといって、それだけで、「よくいい聞かせて、反省させます。学校に申し訳ありません」というふうに、頭を下げていない。子どもがある原理にもとづいて、一見逸脱行動と見える行ないをやるとき、母親がその後ろだてとなってやっている。

このイヤリング事件、学校の最高決定機関である学校評議会で、教員、父兄、生徒が協議した結果、とうとう「男子もイヤリングをつけてよし」という裁定となった。

ここでは、学校という組織体の規範に対して、家庭という集団の価値体系が、負けずに押し返している。これをひとつの連帯型集団主義の実例だと考えることができる。

「愛のムチ」

こういう気風に照らしてみると、日本の学校での体罰の横行は、同一の価値と行動を上から生徒に押しつける管理型集団主義の強制に他ならない。この現象は日本における家庭の自立性の弱さを反映しているように思える。価値観、倫理観、ライフ・スタイルなどの選択については、オーストラリアでは、家庭が子どもに対する教育の場である。その点では、学校はごく末梢的な役割しか果たさない。教員の仕事は知識の伝授で、人格の形成というようなことを担当しないという点では、小学校でさえ、小さな大学のような感じがある。宗教色の強い私立学校は別として、ほとんどの子どもたちが通う公立校は、そういうことになっている。

私たちの子どもたちは、全員近所の公立校で過ごしたが、日本ヘ一時帰国したとき、特に驚いたのは、日本の学校の先生が生徒に対して暴力をふるう点だった。子どもたちが日本の学校へ通学したのは、一九七七年と八二年の二回。全部合わせると、一八ヵ月ほどになる。特に二回目のときは、娘のあすかとわらべが中学校へ通う時期だったが、先生が生徒に平気で手を上げることに、びっくりしていた。私たちは、母国の文化と言語を自分の子どもたちが、すこしは身につけて欲しいと考えていたので、彼女たちの観察には、言葉もない。

「きょうも、数学の先生が、こんな問題ができないのか、とふたりの子どもの背中を定規でなぐったの。きのうは、体育の時間に、きちんと整列しなかった生徒の頭を、笛でコツンコツンとたたいていったわ。出血した子もいるのよ。お父さん、日本の先生は、生徒をたたくことを許されているの」
「いや、法律では禁止されているんだけれど……」
「法律違反をしているのなら、どうして、そういう先生は処罰されないの」
「……」
「生徒の両親は、こういうことに腹を立てて、文句をいっていかないの」
「日本の父兄の大半は、体罰は望ましいことだと考えている。そういうことを示す世論調査の結果もあって……」
「えー? どういうわけで、日本のおとなはそう考えているの」 

実際、どういうわけで、体罰を許容する親が多いのだろう。この問題はこみいっている。戦前の軍国主義は、戦後になって終わったといわれているのだが、先生が生徒をなぐる権利を維持しているという点では、根本的な変化はない。それに、「愛のムチ」などという表現さえあって、暴力を通して愛情が表現できるという考え方が、正当なものとして受けいれられる土壌もある。こういう面では、先生本人が政治的に右派であるか左派であるかというようなことは、あまり関係がないようだ。

日豪「家庭の方針」

しかし、もっと根本的な問題があるのではないか。それは、学校教育とは独立した家庭教育の空間が、日本社会では狭すぎるという点につきる。「人格形成」という概念ひとつにしても、それは教員の独占産業であってはならないはずだ。各家庭がそれぞれに独自の「人格」を育てる仕事をしていれば、その結果として、多種多様な「人格形成」がありうる。そのことに気がついたのは、息子の隼人が日本での生活中、おもしろいポイントを指摘したからだ。

「日本のお母さんは、ほとんどみんな、子どもに『勉強したの?』『宿題やった?』というようなことを、しょっちゅう聞いているね」
この観察には、ある真理がふくまれている。学校の価値観を家庭がそのままオウム返しにしているという点をつかまえているからだ。隼人の話によると、オーストラリアの母親はそういう会話は、あまりしないのだそうだ。むしろ、家族全員で休暇旅行に出かけるとか、歯医者の検診に子どもを連れていくとか、家のスケジュールのほうが中心で、学校のほうは「従」なのである。必要に応じて欠席させたり、早退や遅刻をさせたりすることがよくあるが、そういうときには、親が手書きの短い手紙を先生に持たせるだけだ。教員のほうも、学校は家庭から毎日子どもをあずかっている場所だという考えがあって、家庭の選んだ方針には介入しない。

「人格形成」は家庭の仕事だから、教員は自分の価値観とは異なる子育てが行なわれていても、それを認めるという原則が貫かれている。先生が自分の価値観一色に、全生徒を染め上げようという前提を持っていない。逆に一色主義をゴリ押ししようとするとき、対抗価値をはねのける手だてとして、権力の立場にある教員が子どもを襲うという形態が生まれる。日本で体罰教員が大手をふっていられるのは、家庭が学校に支配されない価値伝承の機能を棄ててしまっているからではないだろうか。

ある女子高生の観察

管理型の集団主義が力をふるうと、統制が届かない場所では、人は利己主義の極端に走りがちだ。しめつけられた分だけ、しめつけの弱い場所では反動が大きい。将来をになう若者の価値観についての各種の国際比較調査によると、おしなべて、日本の青少年が自己中心主義であり、家庭や学校に不満が多く、社会への貢献を生きがいにしていない。管理型集団主義と利己主義とは、盾の両面なのである。

若くして日本に留学した海外の子どもたちの中には、このことに気がついている人もいる。数年前、在豪日本大使館主催の全豪日本語弁論大会を静聴して、その感を深くした。この大会で最も辛口の演説をしたのは、高校三年の女子学生であった。ロータリー交換留学生として、一年間を日本ですごし、東京の三つの家庭での生活を体験した。要旨はこうである。

—そのひとつの家庭では、一六歳の男の子がいて、週二回家庭教師に来てもらっていました。彼は親になにもいわないで、ふらっと家を出て、夜遅く帰ってくることがよくありました。親に対して、あいさつはもちろん、どこへ出かけるかもいいません。食事のときも「ごはん」「お茶」などというだけです。

もうひとつの家庭には、一四歳と一二歳の男の子がいました。週二回、二人とも塾に通っていました。母親のいうことを聞かず、「ごはんですよ」と呼ばれると、テレビを見ながら「うるさい」と言い返すだけです。日本の子どもたちは、物には恵まれていますが、本当の家庭の姿がないと感じました。父親はほとんど家にいないし、母親の気持を子どもが理解しないで、反発ばかりしています。日本は経済的には豊かになりましたが、そのために家族のだんらんや親子のコミュニケーションが犠牲となっているのではないでしょうか。

—この少女は六年前に母親を病気でなくした。しかし、温かい家庭生活に恵まれていて、自分の家庭と滞在した日本の中流家庭を対比して、驚いたらしい。日本は「ファミリーを大切にする国」などと、よく英文の社会科教科書に書いてあるが、この女子高校生の観察は、そういう叙述の正反対だ。オーストラリアのほうが家族主義的、日本のほうが自己中心的という対比の可能性を指し示している。これだから、社会比較という作業は簡単ではない。

開かれた家族

妻の話だと、オーストラリアの学校の父兄会は日本とは全く様子が違うという。日本の父兄会ではよく、「先生、このごろ子どもがテレビを見すぎているようなので、もっとたくさん宿題を出してください」とか、「最近、親の注意を聞きません。もっと厳しくやってください」というようなことを、親が先生に対して平気で頼んでいる。こういう現象は、オーストラリアの学校では、ほとんどないのだそうだ。世界観、行儀作製、生活様式、倫理基準といった分野は、親が責任を持ってやることで、そんなことを学校に依頼すれば、親の資格そのものが問題になる。妻は、「日本の親は、家庭内での教育を放棄して、先生先生と学校にすがりついてはる。そやから、子どもが体罰を受けてきても、それをありかたく押しいただいて、抵抗する気迫があらへん」とよくいっている。

オーストラリアの公立校には、道徳教育というような時間はない。その導入さえ、議論されない。家庭がそういう問題を担当している社会では、学校における道徳教育という概念そのものに意味が薄いからだろう。オーストラリアの先生は全く体罰を行なわないだけでなく、道徳じみた説教も、ほとんどしない。日本の学校での体罰の横行、道徳教育の奨励といった現象は、家庭における人格教育の放棄を根に持っている。学校でのいじめの氾濫も、この相関関係の輪の中にあると思われる。

オーストラリアの学校で体罰がないのは、子どもの人権という考え方が広がってきているからである。人権というものは、つきつめていくと、組織の要請と対極の位置にある。職場機構、労働組合、任意団体などの組織が、ああしろ、こうしろと求めてくることに対して、それをそのまま、うのみにしない姿勢が構成員の中にないと、人権を守る気風はつくりにくい。組織の要請に対して、なまけ者になる用意があることが、人権擁護文化の筋金であるように思える。そういうなまけ者同士がおたがいを守り合うときに、連帯型集団主義が発生するのである。家族が内部団結の強い集団を構成し、しかも条件によっては、国家や大組織の要請に応じない単位として作動するとき、それは上からの「管理型集団主義」とは区別された意味での「連帯型集団主義」のトリデとなる。

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カレル・ヴァン・ウォルフレン
『人間を幸福にしない日本というシステム』より

集団主義の神話

政治的には鎖で繋がれているに等しいサラリーマン層を、そうあらしめている要因は、人口統計学的要因(つまり中間階級という条件)以外にも、まだある。前に述べた、人々が状況に関して意図的に無知に保たれていること、そして偽りのリアリティを信じ込まされていることも、明らかにサラリーマンの置かれている状況と関連しあっている。

日本の驚くべき経済的発展に関して、これまでに何ダースもの説明が与えられてきたが、それらは、私が記したような階層秩序的な管理の実態を、人々の目から覆い隠してきた。それらの説明は、たいてい、日本社会の深層に植えつけられているとされる「文化的伝統」の要因を強調する。たとえば、「日本人はもともと慟くのが好き」だとか「生まれつき。“集団生活”を好む」だとか「倹約の伝統にしたがって貯蓄にはげむ」といった説だ。なかでも、日本人は生まれつき何でも集団でしたがるという説は、偽りのリアリティを支持する人々がとくに好んできた議論だ。

表面的にはいかにも本当らしく見える。そして、もちろん、日本の若者も成長の過程で、集団の権威を受け入れていくよう条件づけられる。しかし、だからといって、日本人は「生まれつき」集団志向だとは私は全然思わない。私は、長年の日本の人の観察から、そう断言できる。私に言わせれば、会社に入ったとたんに日本の人たちが体験させられることが、日本人が生まれつき集団志向人間ではない証拠である。日本の企業は、ずっと以前から、社員を参加させる実にさまざまな儀式を発明してきた。この種の象徴的行事のことは、あなたもとっくにご承知だろう。これらの儀式は、社員たちに、彼ないし彼女たちの犠牲は価値ある目的に捧げられるのだと納得させる意味がある。あなたも、多分、新入社員のころに、外国なら軍隊の新兵訓練でしか体験できないような訓練を受けているはずだ。

新人社員は、ときに、道路をほうきで掃かされたり、冷たい川に潰からされたり、整列して登山させられたり、その他いろいろ、とにかく自尊心を傷つけ、ヘトヘトになるようなことまでさせられる。これらの、厳しい集団訓練やお互いでする告白ごっこなどの訓練は——文化人類学者が見たら喜んでこれぞ清めと通過儀礼の実例だと教えてくれるだろうが——重要な目的のためにおこなわれている。軍隊の新兵訓練と同様、個人の意志を吹っ飛ばすのに役立つのだ。

さて、もし日本人が生まれつきの集団志向人間だという話が本当なら、どうしてまたわざわざこうした訓練が必要だろうか。必要ないはずではないか。くわえて、はっきりと「倫理的」な規範をうたった「社是・社訓」や、半ば神話化された社史の類が、社員たちに、会社はものやサービスをつくり出して金をもうけるだけの場所などではなく、もっと特別に意義のある場所なのだと信じ込ませようとする。もし、日本の若者たちが、成長の過程で、会社との「一体化」への心理的抵抗をすべて取り除かれているというのなら、就職は生活手段の獲得ではなく崇高な使命への参加なのだと新人社員たちに思い込ませようとする、こんなさまざまのバカ騒ぎは必要ないはずである。

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佐高信×宮本政於『官僚に告ぐ!』より

宮本 日本の官僚制度の問題点を突き詰めていくと教育制度にぶちあたりますね。そこでどうして日本の国民は常に「お上」に依存するような体質になってしまったのか、これがこのごろ考えているテーマです。まだ結論に達していませんが、どうやらその起源は江戸幕府にあり、明治になって「お上」への依存体質がより強調されたように思うんです。

明治二十三年に発布された教育勅語には、親孝行から国法を守ることまで日本国民が実践すべき徳目がずらっと並び、さらに「いったん国が危険な事態に直面したならば、一身を捧げて天皇の治世を助けなければならない」と国民としてのありかたまで説いています。

これは「国体」の基本精神ですが、これは要するに、日本国家のために国民は存在しているのであって、国民のために官僚制度があるのではないという発想ですよ。

さらに、その発想の根底には「国民一人一人に自立されては困る」といったホンネが隠されています。国民の間に独立心が育ってしまえば、「国体」の精神などまたたく間に崩壊するからです。

だから文部省を頂点とした教育機関は、日本国民の中に独立心とか自由などの考え方が広まらないように努力してきたわけです。その教育方針は敗戦を迎えても変化しなかった。だからこそ「過労死」などという民主国家としては恥ずかしい現象が後を絶たない。

佐高 それはもう、はっきりそうでしょうね。ただ現代は「天皇のために」が、「お役所のために」「会社のために」と変わっただけでね。だから、宮本さんや私のように「国家の前に国民ありき」という考え方は、明らかに危険思想なんですよ。それがなぜ官僚批判のテーマにつながるかというと、責任の行方にかかわってくるからです。責任というのはやっぱり個人が取るものですね。しかし、この国では個人を育てない。だから個人の責任を明らかにしないで、みんなで一緒に責任を負うことにする。みんなに責任があるということは、誰にも責任がないのと同じでしょう。つまり、ムラの調和の中に個を埋没させて責任を雲散霧消させる。その体質が一番特徴的に表れているのが官僚というわけです。

宮本 その通りですね。自立心や独立心が育っていない人間は、「個が確立」していませんからどうしても傷つきやすい。そのような人たちが集まってできた官僚ムラでは、お互いに相手を傷つけまいとする配慮がどうしても働いてしまいます。そして「調和」を合言葉に一致団結し、みんなでムラを守ろうとする。だから日本中を騒がせるような不祥事を起こしても、結局、官僚ムラの中では誰も傷つかないんですよ。

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筑紫哲也×C・W・ニコル×宮本政於
『他人の問題 自分の問題』より

宮本 日本の教育は人間を枠組みのなかに押し込めるための教育です。それを文部省が音頭をとって行っている。小学、中学、高校と学齢が上がるにつれて規制も多くなることに気がつきます。小学校の規制は小のレベル、中学校では中レベル、高校では微細にわたって規制がある。高校を卒業したころは、多くの人たちが従順な"人間ロボット"となっている。そして、大学の機能は「滅私」の人生を送るためのオアシスと化している。

そもそも教育の本質とは、自分の属している枠組みとか体制などに常に疑問を投げかけることからはじまるのではないか、と私は思っています。学校の先生がいったことや教授が教えてくれたことは常に正しいと思うのではなく、ひょっとしたら間違っているのかもしれない、そう思うことが新しい発見に繋がるし、創造性もそのような教育があってこそ育つと思うんです。これは見方を変えれば、人間を中心にした教育だともいえると思います。ところが文部省主導の教育とは、組織体を維持するための教育です。

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