社畜を洗脳する
「偽りのリアリティ」

---------------------------------------------------------------
カレル・ヴァン・ウォルフレン
『人間を幸福にしない日本というシステム』より

われわれがもっと活用すべきもう一つの概念を紹介する。「偽りのリアリティ(False Reality)」という概念である。これは、ものごとを解釈しようとするときにはいつでも生じうる単なる誤解のことではない。うっかり誤解したのであれば、すぐにでも正しい解釈に変えることができる。私が言う「偽りのリアリティ」にはもっとずっと根が深くて気づきにくい性質がある。それは、事態の誤った説明がつづくかぎり存在しつづける「現実」なのだ。偽りのリアリティは、大多数の人に、たいへんもっともらしく見える。一見つじつまが合っていると思わせるからだ。独裁国家や全体主義国家は、つね日頃から一連の思想を入念に創作し、それが同時に、偽りのリアリティをかたちづくっている。そして、その偽りのリアリティが、今度は、独裁制や全体主義のシステムを支える基盤となる。

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では、人々はそこが労働者の天国だと絶えず教え込まれている。ソ連の被支配者たちは、最後まで、そこが世界で最も進んだ福祉国家だと聞かされていた。日本は独裁国家でも全体主義国家でもない。しかし、偽りのリアリティという幻想が、政治・経済問題にからみ、日本のいたるところで深く根を下ろしている。日本の民主主義はまだ実現していない。それは可能性にとどまっている。そして、人々が常時頭のなかに居座らせつづけている、この私の言う偽りのリアリティこそが、おそらく日本の民主主義実現への最大の障害物になっている。

「シカタガナイ」の政治学

日本人が完全に市民として行動するのは難しい。それは、市民として必要な知識の多くを奪われているからだ。日本という国が官僚と経済団体の役員たちによって実際にどのように運営されているか、その内幕は「タテマエ」という見せかけの奥に隠されている。日本の市民たちの明日の生活、さらにはその先々の生活にまで影響する最も重要な決定でも、通常は公に議論されることがない。

「バブル経済」の発生と終息への大蔵省の関与は、その最も顕著な例だ。日本の人たちは官僚からしばしば荒唐無稽のでたらめな話をきかされる。これは、官僚が面子を守りたいと思っていたり、正確な情報が世間に流れると実現のチャンスがまったくなくなるような計画を強行したいと思っていたりするからだ。おまけに、日本のたいていの新聞は、新聞の第一の使命は市民に情報を提供することだなどとは思っていない。だから新聞は、「純朴」だが政治的には無知な日本人の層を存続させるのに手を貸している。

メディアは、日本では、政治・経済・生活上の「タテマエ」という表向きのリアリティを「管理」するための、つゆ払いの役目を果たしている。この管理されたリアリティは、われわれが努力すれば発見できる本当のリアリティと、たいへんちがっている。なるほど説明と実際の不一致は、すべての民主国家を含め、どの国にもある。しかし、私がここで指摘している日本のその落差は、他の先進工業国より、はるかに、はるかに大きいのだ。日本の市民はたいてい、何かにつけ、このリアリティにはまり込んで動けなくなっていると感じている。表向きのリアリティが、管理されたつくりものに過ぎない、と時々は気づく—が、結局はそれを受け入れざるをえない。なぜなら、周りの世界はすべてそれによって動いているからだ。

日本人がこうした状況にはまり込んだ時、口をついて出るセリフが「シカタガナイ(仕方がない)」である。「シカタガナイ」というのは、ある政治的主張の表明だ。おそらくほとんどの日本の人はこんなふうに考えたことはないだろう。しかし、この言葉の使われ方には、確かに重大な政治的意味がある。シカタガナイと言うたびに、あなたは、あなたが口にしている変革の試みは何であれすべて失敗に終わる、と言っている。つまりあなたは、変革をもたらそうとする試みはいっさい実を結ばないと考えたほうがいいと、他人に勧めている。「この状況は正しくない、しかし受け入れざるをえない」と思うたびに「シカタガナイ」と言う人は、政治的な無力感を社会に広めていることになる。本当は信じていないのに、信じたふりをしてあるルールに従わねばならない、という時、人はまさにこういう立場に立だされる。

シカタガナイという言葉を知るずっと以前、私が日本に来てまだ数カ月のころ、日本人のおとなしさ(docility=御しやすさ)には面くらったものだった。日本人は日常生活で必要以上の我慢を強いられているように見えた。ほかの先進国ではまず受け入れられるとは思えない生活条件を押しつけられていたからだ。よく通った中間階級向けの食堂で、いつも出される食事のまずさと量の少なさには驚きっぱなしだった。喫茶店で、ソフトドリンクを1びん注文したつもりなのに、びんからはちょっぴり注いだだけで、ほとんどは氷で埋まったグラスが出された時は、さすがに怒ったものだ。当時の外国人仲間で、それぞれが目撃した、ひどい扱いをされても何も文句を言わない日本人の驚くべき実例を、あれこれと話題にしたものである。私たちは、顔を合わせれば、日本人の「受け身で受け入れる」態度について語り合っていた。後になって、この態度には自尊心がからんでいるとわかってきた。

いちいち騒ぎ立てないのが大人の態度であり、私たち外国人のように文句ばかり言っているのは、子供じみていて自分勝手で、やっかい者の最たるものだと考えられているのが次第にわかってきた。成熟した大人の日本人なら、ひどい扱いもこれを許し、静かに耐えることによって、互いを受け入れ合うというわけだ。日本には昔から、仕方がないと言えるようになれば成熟した証拠だとみなす伝統がある。そして確かに、これは日本だけの伝統ではない。西洋でも、いや世界中どこでも、自分の能力の限界の自覚が、もはや子供ではない証拠だ。しかし、重要なちがいもある。私と友人が初めて日本にきた当時、私たち外国人は、こんな詐欺まがいの商慣行を顧客として中止させる能力が自分たちにないなどと、どうしても容認できなかった。食堂や喫茶店のほかの客も私たちの抗議に加わってくれれば、イカサマ商売はやめさせられるというのが私たちの考え方だったのだ。

日本の市民の生活環境としては不幸なことに、徳川時代の全体主義的な政治体制が、今日もまだ幅を利かせているのである。日本が市民の国となるためには障害になるに決まっている生き方が、いまだに正しいとされている。徳川時代なら、「シカタガナイ」や、それに類する当時使われた言い方は、とても理に適っていただろう。なにしろあの時代には、庶民は国のいたるところで、ひどい政治に耐えなければならなかった。不服従には厳罰が科せられ、死も覚悟しなければならなかった。しかも同時に、そのころの圧倒的多数の人々には、既成の政治的・社会的秩序を批判する別の道徳原埋かありうるなどとは、ほとんど想像不可能だった。徳川時代にあっては、自分たちの日常生活の質を決めている政治の現状を、ただそれが存在しているというだけの理由で、自動的に善いものだと受け人れるほかなかった。

しかし、当時のような過酷な政治状況の中でさえ、すべての人がおとなしく従っていたわけではなかった事実には励まされる。日本の歴史書ではあまり注目されないが、徳川時代には、長期にわたって、反乱と暴動がほとんど絶え間なく続いていた。また、十八世紀前半の人・安藤昌益の著作を読めば、ここに少なくとも一人、徳川幕府は武力とイデオロギーの支えなしでは崩壊する独裁政体であることを見抜いた思想家がいてくれたのがわかる。彼のように考えた人はもっといたはずだ。彼らは、たとえ不運な環境に生まれても、人間にはそれを乗り越えて知的に成長する能力があることを示す、すばらしい証人たちなのだ。

表面的には、明治の指導者たちは、前代の、この世には完璧な政治が行われているというタテマエ論を台なしにしたかに見える。明治政府の計画では、社会の多くの領域が改善されねばならなかった。現状すなわち善という思想を維持するのはもはや容易ではなく、外の世界に急いで適応する必要もあったからなおさらだった。同時に、農民たちが兵士や工場労働者になるという人規模な社会の流動化現象が起こり、それは自然に、望ましい社会とは何かを問う機運を生み出していた。そしてそうした問いかけは、見境いなく輸人された外来思想や外来イデオロギーに刺激され、いくつかの荒っぽい答えも生み出したのだ。それでもやはり、明治と昭和の政府当局が「危険思想」と破壊活動を鎮圧していった過程を見れば、「シカタガナイ」という態度の慎重さのほうが、はっきり浮かび上がってくる。

そして戦後、有権者に選択の機会を与えず官僚たちが日本を運営しつづけてきた過程は、「サラリーマン」人生がいつの間にか変えようもないほど定着してしまうまでの過程と同様、この国の人たちが政治や社会生活への考察を「シカタガナイ」というひとことで断ち切るほかなくなってしまったさらなる原因になったのだ。この言葉があるから日本人たちは、今日も政治的な檻(political cage)のなかで暮らしていると考えられる。「シカタガナイ」のひとことの力が、その檻の格子をいよいよ堅牢にし、その扉をしっかりと閉ざしつづけている。「シカタガナイ」という言葉が、家庭や職場での、また大学や役所での日常的な政治的議論の結論になっているかぎり、日本人がよりよい暮らしを手に人れる可能性はほとんどない。自分の人生をより自由に生きたいと思う市民は、「シカタガナイ」という一句を自分の辞書から追放したほうがいい。しかし、そうするためには、まず勇気が必要だ。本書が励ましになってほしいと思う。

---------------------------------------------------------------

日本では「長時間労働が豊かな生活を生んでいる」という偽りのリアリティが横行しているが、現実の生活レベルは貧しいものである。「『国民の幸福度』はデンマークが1位、日本はまさかの90位に。」からもわかる通り、自由に使える時間が少なく、ストレス過多、荒んだ家庭は人々の人生をみすぼらしくしていく。

TOP [ニート・ひきこもり・不登校(登校拒否)の原因と親]

inserted by FC2 system