風邪を引いても出社する社畜、
病欠を有給休暇に振り替える社畜

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宮本政於『在日日本人』より

病気は有給休暇で消化しろ

ところで誤解のないように、つけ加えておくと、役所ではまったく有給休暇が消化されないのではない。問題はその使い方なのだ。病気になったとき、有給休暇が振り替えられるのだ。本来、病気には病気休暇というものがあって当然だと思う。だが官僚組織の実態はそうではない。

通常一年間のうち風邪など軽症の病気にかかって職場を休む日数は約五日間だそうだ。エール大学、コーネル大学など、私が働いた大学ではこうした統計に基づいて五日間の病気休暇が認められていた。もちろん病気にならなかった人は、年度末にその五日間分の給与が支払われた。だが"滅私奉公"の理念がまかりとおる日本の役所では、病気になったから仕事を休むのは当然だという姿勢は存在しない。

役所における、病気になっても有給休暇を用いるという慣習は、病気にかかったという事実を隠してしまう。病気休暇を有給休暇で消化すれば、申請書には病気という文言が残らない。組織に属している人間はみんな健康だ、ということになっている慣習は、どのような病気で休んだのかという公衆衛生上の統計を取る場合、大きな問題となる。大本営発表の数字がまったくのでたらめであったことは周知の事実だが、その伝統は役所の中で生き延びている。だからお役所から出てくる統計は、ななめから見る姿勢でちょうどよい。

以前、『エコノミスト』という英国の経済週刊誌に「日本人は他の先進諸国に比べ病気になりにくい。でもこれは日本人が他の国民に比べ健康な体を保持しているからではない。病気休暇が有給休暇の中に組み込まれているために、実態が見えないだけだ。さすが働き蜂の日本人」と日本の労働環境を皮肉った記事が掲載されていた。こうした記事が出ること自体、日本の国際性が問われているのである。それでは中央官庁での有給休暇にまつわる非国際性を具体的な例を用いて説明しよう。

私が役所に入って三か月目のことだった。風邪をひいて三日間ほど休んだ。後日、書類手続きのため、病気休暇を申請したところ、「宮本さん、有給休暇を使ってください」と出勤簿担当の者から言われる。「病気なのだから、病気休暇でしょう」と言うと、「どっちみち、有給休暇の完全消化など不可能なのですよ。だから、病気になったら有給休暇から消化するのが、しきたりとなっているのです。それに病休になるとボ—ナスに響きます」との説明がつく。しきたりとは、恐れ入ったものだ。しかも「ボーナスに響きます」という殺し文句でしきたりを強制してくる。

そこで、どうしてそのようなしきたりができたのかその由来を聞いてみた。彼は、「本当はだれでも有給休暇を休みとして、全部消化したいし、病気を有給休暇に振り替えるなどしたくないのです。でも、病気休暇を取るのは極力避けるべき、との合意はちょっとやそっとでは跳ね返せません。結局、長い物には巻かれろ、とあきらめの境地に達し、病気のときに有給休暇を消化するようになってしまうのです」との返事が返ってくる。このしきたりへの迎合は「私は自分が与えられた当然の権利を放棄するほど自分に鞭打つことが大好きです」というマゾヒスト的ポーズを周りに見せることにもなり、"滅私奉公"への最高の証ともなる。しかもこの「ボ—ナスに響くから病休を取るな」という指示の裏には「病気になってはいけない」というメッセ—ジが隠されている。

すなわちこうした、実態は病気であっても、書類の上では健康だという取り繕いは、本音と建前の使い分けでもある。お役所が大好きな建前という名の錯覚に浸れるわけだ。そこで、「病欠を有給休暇で消化する」のは、組織を維持するための一種の教義でもあると考えると、なるほどと理解できるようになる。宗教を維持するためには教義を唱える必要があることはだれでも知っている。なぜ教義を唱えることが大切かと言うと、教義は集団に属している個人を示にかけるからだ。こうした効果は最終的に、人々を錯覚の世界に浸らせる。すなわち、みんなで「私たちはいつも健康です」という教義を唱えることは、自分たちを「いつも健康です」という自己暗示にかけていることでもある。

組織人間は、風邪などひくわけがない

厚生省は病気の予防と治療の前進に全力を注いでいる省である。そして厚生省が他の省庁と大きく違うところは、医者という集団が役人の中、かなりの数を占めていることである。ところがいったん役所という集団組織に属してしまうと、不思議なことに医者のグル—プは、風邪の治療に最適な方法を知っていても、それを口にしなくなる。

これが日本的組織体に属することの恐ろしさだと言ってもよい。医者という科学者までが、現実から逃避するような姿勢を取るようになるからだ。もう少し具体的にこの部分に触れてみよう。厚生省の役人だから、国民の範たるべきと、体を大切にしているかと言えば全然そうではない。ほとんどの人たちは、風邪の具合が相当悪くなってからでないと休もうとしない。そもそも厚生省では、自分から風邪ですと言って休む人は少数派なのである。お役人は、マスクという不思議なものを着用するのが大好きである。このマスクと称するものは、科学的な見地から見ると、風邪のもとであるウィルスの伝染を食い止める効果などまったくない。だが、医者がこれだけ集まっていてもだれもその事実を指摘しようとしない。厚生省の技官の多くは、医者である前に日本株式会社の伝道師となっているのである。

いずれにしろ、うっかりすると銀行強盗と間違われるかもしれないようなものを口に充て、熱で顔が赤くなっていても出勤してくる。そして机に向かってコンコン咳き込んでいる。当然風邪ウィルスはマスクを通過して周囲にまきちらされる。人間様がウィルス噴霧器となり、ウィルスは繁殖を図るわけだ。咳が出る。熱が高く喉は腫れている。節々が痛み体はだるい。だれでもこのような状態におかれれば生産性など上がらない。しかし、役所では、自分の健康を考えることより、非能率的であっても体に鞭打って机の前にすわっていることが尊重される。そして周りが見かねて「〇〇さん。つらそうだから休んだらどうですか」と言われるまでじっと耐えている。それではそこまでして勤務して、仕事がはかどったのかと言えば、そんなことはない。熱のため集中力はなくなり、ぼんやりと机の書類を眺めているだけとなる。そうなると、周りの人たちも何度となく「早く帰りなさいよ」と言う。そこで初めて「申し訳ありませんが、帰らせていただきます」と、やっと帰り支度を始めるのだ。しかもこの帰り支度に、どこかうしろめたさがある。自分の体を休めるために帰宅するのにうしろめたさを感じるなどおかしな話だと思うのだがあたかも悪いことでもしているような気持ちで帰るわけだ。

厚生省は病気の「早期発見、早期治療」に力を注いでいる。体の調子がかなり悪くなってから治療を始めれば、それだけ治癒にも時間がかかる。時間がかかるということはお金もかかる。厚生省の技官たちは公衆衛生という予防医学の専門家でもある。当然「早期発見、早期治療」の姿勢は自分たちの専門知識力試される最良の場でもある。となれば風邪への対応は、「風邪をひいたと思ったら、抗生物質など飲まずに自宅で二、三日休養しなさい。そうすれば抵抗力も減退せずにすみます。症状もひどくなりません。他の病気を併発する可能性も少なくなります。しかも仕事を休む日数も最小限で抑えられます。その結果、あなたの風邪を他人に移さずにすみ、みんなも迷惑を被りません。生産性の低下も最小限度で食い止めることができます」となるだろう。ところが実態はまったく違う。組織体にはびこっている"滅私奉公"の理念に毒されたおかげで、「病気になっても有給休暇を使いましょう。書類上病気の登録がないことは、病気一つしない健康体だと信じることにつながります。『病気なんかにならないぞ』との精神さえ持てば、病気はあなたを襲ってはきません」と、科学者としてはあるまじき精神論重視の姿勢を取るようになってしまうのだ

だがこうした精神論重視も集団思考のなせる技である。"滅私奉公"の呪縛から解かれると、医者たちは本来の科学者の姿を取り戻すし、事務系の人たちも、組織のために自分の生活を犠牲にすることはバ力らしいと思うようになる。実際、酒を飲んだときに出る本音では、いかに犠牲がバカらしいかと話している。だが、組織の中に浸透している"滅私奉公"の力は恐ろしく強い。いったん組織に戻ると、だれもがおかしいと思っていても文句を言わなくなってしまうのだ。その結果、精神論に浸ることをよしとし、その証としての勲章とか賞状などを期待するようになってしまうのだ。なんと寂しい人生かと思ってしまう。

私は何度となく、退職をひかえた役人たちが、仲間同士で自分は勲何等をもらえるなどの話をしていたのを聞したことがある。勲章とか賞状などは決してもらって悪いものではない。だがそれらをもらうことが、人生の最終目標となってしまうのではあまりにもみじめではないかと思うのだ。

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