"個"の未成熟ゆえに自己主張できない社畜

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宮本政於『在日日本人』より

"滅私奉公"は異常な心理

私は、どういうわけか、厚生省のどの部局に配属されても、必ず問題を起こしてしまう。自分から問題を起こそうという認識はまったくないのだが、私の人生観に周りが異常とも言えるような反応を示す。しかも、問題は二つの点に集約されている。一つは、残業。もう一つは長期休暇である。たった二週間の休暇、しかも比較的暇な時期で仕事に支障が起きないようにとバックアップまで頼んでいても、長期休暇など取るべきではないと言ってくる。また重要な仕事が残っているわけでもないのに、みんなと一緒に残業するのが当然だといって圧力をかけてくる。

私の目から見ると彼らの発想は異常としか言えない。だが、Aさんに代表される企業戦士たちを診察していたとき、私の勤労感覚と彼らのそれがまさかここまで違っているとは気がつかなかった。Aさんのように、自分の生活を犧牲にしてまで"滅私奉公"をする人が賞賛されるという風土が日本社会にある。これは、帰国して七年たった今でも信じられないことの一つなのである。Aさんのような勤労意識と、私のように自分の生活を充実するために仕事はあるという勤労意識が、一つの組織に同時に存在すると、必ずといっていいほど摩擦を引き起こす。

ある日どうしてこうも摩察が起きるのだろうかと、目くじらを立ててくる人たちの生態を精神分析的見地から考察を加えてみたことがある。そこでおもしろいことを発見した。役所で自分の生活を省みないで仕事一筋の人たちは、"個"の成熟ぶりが、欧米社会の人たちに比べて遅れていることに気がついたのだ。"個"の成熟と自己主張には深い相関性がある。仕事一筋の価値観を人生だ、そう考えて行動している人たちは「自分の生活権を確保したい」という自己主張など行わない。これは自己犠牲を美化する精神構造があってこそできる技である。

"個"が成熟すると「犠牲の美学に基づいた生活などお断りだ」という自己主張が現れる。ところが日本ではいつまでたってもそのような意見は主流とならない。"個"の成熟度が足りないと、自己主張ができないばかりか、個人を犠牲にしろという論理に丸め込まれてしまうのだ。

アメリカ社会では"個"が成熟していない人は一人前として扱ってもらえない。ではアメリカでは"個"の確立が完全にできているかと言えば、そうではない。私のクリニックで"個"の形成を求めて精神分析を受けた患者が結構多かったことが、その証拠だろう。だが日本では"個"の未成熟は問題だ、という認識がない。逆に日本的組織の中で上手に泳ぐには、"個"の成熟度はそこそこのほうがよい。"個"が成熟した余り自己主張などしようものなら、組織からはじき出されてしまうからだ。

こうした"個"の形成などには見向きもしなかった人たちにとって、私のように周りとの意見の違いを明確にするような存在は目障りなのだろう。反論の代わりに感情論で攻めてくる。休暇とか残業など勤労感覚の違いについても、「みんなと同じ行動を取らないお前はけしからん」との説教となる。「休暇を取ると出世の妨げになる。組織への忠誠心を疑われる」と嘆いたAさんは、正しかったのだ。日本では、とにかく一分でも長く会社の同僚と机に並んでいないといけないのだ。

しかしお役所の掟に従わず、上司の指導も無視する私は、必然的に出世のレールからはずされる。疾病対策課の筆頭補佐を最後に、技官仲間では閑職と認知されている関東地方医務局指導課長とか東京検疫所の検疫課長のポストをあてがわれることとなった。だが掟は閑職であろうがなかろうが、役所にいる限り存在する。逆に閑職ポストと言われているようなところに限って、掟による締め付けが厳しくなると言ってもよい。

休暇を取るのは罪悪か

霞が関にいる間、問題ばかり起こすので、幹部たちはしきりに私に辞職を説いてきた。でも人生の節目は自分で決定する、というポリシ—を持っている私は、辞職勧告には応じなかった。そこで、彼らは次善の策として出先機関に私を左遷した。出先機関に行くと、中央と地方の力関係から、出向した人物の能力の如何にかかわらず、出向先でのポストは中央よりワンランク上のポストに就くという伝統がある。この制度のおかげで私も管理職のポストがあてがわれることになった。

さて、管理職になると部下の休暇願に承認を与えることも私の仕事となった。部下の側からすれば許可をもらうのだが、この過程は人間の心理に微妙な影響を与える。どういう影響かと言うと、それが当然の権利であっても、権利の行使という認識が生まれてこないことだ。だから私のところに休暇願を出す部下は、決まって、「申し訳ありませんが、休みを取らせてください」とあやまりながら、休暇を申請してくる。Aさんも、日本にいる同僚に申し訳ないから休暇をおおっぴらには取れないなどと言っていた。それはそうだろう。休暇は許可を要するもの、すなわち上司が部下に与えるものだ、そんな認識がまかり通っているのであれば、Aさんのような気持ちが出てくるのも理解できる。そして、私の部下たちも同じような気持ちに縛られているのだろう、だからこそ、あやまりながら休暇を申請してくる。でも、あやまりながら休暇願を提出してくる部下の気持ちは異常としか言えない。

そもそも休暇を取るのに承認という手続きが必要だということ自体おかしい。仲間の間の合意で十分なはずなのだと思っている私なのだ。そこで、「休暇は君の権利なのだから、もっと堂々と申請してよいのだ、仕事の調整さえつけば、存分に休みを取って遊んでこい」と言うことにしている。だが、言われた当人は、決まったように目を白黒させている。

このような対応で、これまで気がついていなかったことに部下は気がつくようになるはずだ。制度が休暇を取ることを難しくしていることもその原因の一つだが、制度以上に組織に属している人たちの休暇に対する意識に問題がある。「休暇は遊ぶ時間として使用するべきではない」とか「休暇は権利ではなく、上から与えられるご褒美だ」という意識が組織で働く人たちの心の根底に流れている。これが長期休暇を取ることを難しくしている最大の原因だろう。こうした考えが根底にあるものだから、「申し訳ありませんが、休暇を取らせていただきます」という卑屈な態度となってしまうのだ。

それではこれらの意識が本音かというとそうではない。多くの人たちは長期休暇を取って遊びに出かけたいのだ。だが建前の世界にどっぷり浸かっていると、本音は言うことができない。われわれ医系技官は年一回の総会を開く。その後懇親会があるのだが、そこにたまたま厚生省を退官して某大学医学部に天下った人がいた。彼は自慢げに、「ぼくは厚生省に二十五年以上勤めた。だが、一回も有給休暇は取らなかった。今、全部消化してもよい と言われれば一一年間も休めるんだ」と言っていたことを覚えている。厚生省という国民の福祉厚生を考える機関にいて、トップにまで上った人のせりふかと耳を疑った。しかも周りは、「すごいですね」などと感心して聞いている。これを聞いていた私は「自分の人生の一一年間も無駄にしておきながらそれを自慢するなんて、しかも後輩たちはその話を聞いて感心している。この人たちはちょっとどこかおかしいのではないか」と思った。

自分を犠牲にする発想と言えば聞こえがよいかもしれないが、一皮向けば貧困の発想がその根底にある。世界一の経済大国になってもこうした発想がまかり通っていると、いつまでたっても日本人の生活の質は向上しない。日本の医療の質は欧米に比べるとまだまだ低い。だが、こうした貧困の発想の持ち主をみんなで持ち上げている人たちが日本の厚生行政を司っているのであれば、なるほど、とうなずける。

欧米諸国では長期休暇ともなれば仲間内でどのような遊び方をしたのか、その使い道が話題となる。有給休暇を取らなかったことなど決して自慢の種になどならない。逆に、この元幹部のようなことを言おうものなら、「自分の生活一つ管理することができない人がどうして今まで管理者としてやってこれたのですか」と馬鹿にされておしまいである。「休暇」とは個人が有する権利だとの認識が徹底しているからよほどのことでない限り、いつでも好きな時期に休暇が取れるのである。

組織社会は不思議なところで、「遊ぶことが大好きだ」というそぶりを、みんなに見せてはいけないし言ってもいけない。人生は苦しいもので「苦しさが楽しみになっているのだ」との印象を周りに与えるようにすることが、残念ながら組織社会の現実だ。こうした「遊ぶことは悪、仕事が善」の価値観は日本人の建前と本音の発想と結びつき、「休暇を取って遊びたい」という感覚を生活の中に取り入れようとするとたちまち"妬み"の矢が放たれる。

だから海外旅行に行こうなどと言おうものなら、「海外旅行に行けるような、お金があっていいですね」と嫌みを言われたり、「おみやげをたくさん買って、みんなに配るのだぞ」などのアドバイスをもらったりする。本当に仕事第一の価値観で"遊び"などに興味がないのなら、他人が遊んでいようがいまいがどうでもよいはずである。ところが事実はそうではない。なぜこのような矛盾が存在するのだろう。それは、「本当はオレたちも遊びたい。でも周りの目が怖いから我慢しているのだ。ところがお前はなんだ」との"妬み"の思いが裏にあるからだ。

「休暇」はご褒美ではない、当然の権利なのだ

私が七年間住んでいたマンハッタンのビジネスマンは猛烈に働く。でもいくら亡しいとはいえ、休暇は必ず取る。働くときは働くが、一息つくために休むのだ。それもテレビを見ながらのゴロ寝ではない。趣味の世界に浸るのだ。日本人だって、盆栽、魚つり、詩吟などの趣味はいろいろあると言われるが、定年後の話だ。美術館に行ったり映画を見たり、コンサー卜へ行ったりして、生き生きと趣味に没頭できるのは二十代の若者か、人生のオアシスとしての大学というブランドに浸りきっている大学生たちだけである。

二十代後半から四十代の人たちに至っては仕事ばかりで、楽しみとはいったい何でしょう、と聞いてみたくなる生活なのだ。日本社会はちょっとでも暇な時間ができるとすかさず仕事をそこに押し込む。OA機器の素晴らしいところは、今まで手作業で時間がかかる部分を省いてくれることなのだ。それだけ自由な時間ができて当たり前と思うのだが、日本社会ではそんな常識は通用しない。毎日の生活がより忙しくなるだけだ。

なぜ、一年に二、三週間ほどの連続休暇を取って仕事を忘れてはいけないのだろうか。それは日本人の心のどこかに、「休暇」は仕事を一生懸命したご褒美であるとの誤った認識があるからだ。厚生省の上司でとても仕事ができる人がいた。私が休暇でいつも問題を起こすので、次のようなアドバイスをくれた。「宮本、お前もオレのようにやり手だという印象を植え付ければよいのだ。そうすれば少々の長期休暇を取ってもだれも文句を言わない」「課長が有能なことは私も十分に認めます。でも課長のポストにいるからこそ仕事も進められるのでしょう。それに課長はちょっと親分肌なところがあるので、みんな迫力におされて文句を言えない、という現実もありますよ」「何を言っているのだ。オレは仕事に厳しいだけだ。お前がしなければいけないことは、周りに仕事をよくする補佐だというイメ—ジを売り込むことだ。そうすれば長期休暇を取ったとしても仕方がないと思い、周囲との摩擦もなくなる」「でもその認識をもらうのには夜十時、十一時までダラダラ残業に付き合うことになるのですよ」「長期休暇がほしいのだろう。だったらそれぐらいの犠牲はしかたがない」

この課長の考え方の基本には、「普通の人より多くの仕事をこなせば周りも自然と休んでください、そんな態度に変わってくる」という丁稚奉公を基本にした考え方がある。でも「休暇」とは仕事を一生懸命した代償ではなく、個人に与えられた当然の権利である。仕事が多くできたからとか、仕事の質が素晴らしいからということで休暇の日数が増えるのはおかしいのだ。だれでも長期休暇を取る権利があるのだ。しかし、そうした権利の意識を育てるには、「休暇」に対する発想の転換を行うことが必要である。「休暇」という個人が有する当然の権利を、行使できるような環境ができてこそ初めて「質が高く、実のある」生活を送れるようになるのではないか。「休暇」を消化しないことが"美徳"では「生活後進国」から抜け出ていないのである。

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