マゾヒストたる社畜

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宮本政於『お役所の掟』より

社歌と国歌

先日、東京にある在日米国商工会議所の懇親会に招待され、日本の某企業に勤める、アメリカ人A氏と話す機会があった。日本滞在二年目という彼の胸のうちには、日本社会に対する「不思議」の念が満ちあふれている。そこで私が不思議の謎解き役を演じることになったのだが、今回はその内容をそっくり紹介しよう。

 日本は理解の範囲を越えているところです。まず私の会社では朝、出社すると「社訓」と称するものを、みんなで唱和する。あれはいったいなんなのですか。時間の無駄だと思うのですが。
 「今日も一生懸命、仕事をしよう」と、ムラの団結を誓いあう儀式なんですよ。社歌を歌うところもありますよ。
 へー。でも、そんなものを歌って効果があるのですかね。
 アメリカでも国歌を歌って国民の一致団結を確認しあうのが好きでしょう。
 でも、それは国家的な行事だからで、学校でも会社でも、自分の歌を作って毎日歌うなんて、聞いたことがない。
 日本はひとつの組織ができると、ミニ国家になるのです。だから社歌は国歌みたいなもので、組織に忠誠を誓うためのもの。この忠誠心が日本の生産性の秘密といわれていますよ。
 にわかに賛成できませんね。だって、私の同僚たちは、とても生産性が高まるような仕事ぶりとは思えません。
 どうしてですか。
 私は社訓も日本語の勉強だと思って、いっしょに唱和しますが、そのあとはすぐ仕事にとりかかります。でも、ほかの社員はといえば、ほとんどが新聞を読み出し、ゆっくりとお茶を飲んでいる。どうみても仕事に打ち込んでいるとは思えない。
 日本社会の生産性は、一見してわかるハードワークから生まれるというよりも、全体のもたれ合いから生まれている部分が大きいってことでしょうか。
 裏を返せば、社訓とか社歌をみんなで唱えないと生産性が上がらないといえるのではないですか。
 おもしろい見方ですね。
 会社とは自分の生活の糧を得るところでしょう。すくなくとも私はそう思って仕事をしています。でもあなたの説明だと、まず会社ありきで個人は二の次との印象を受けるのですが。
 それはそうですよ。日本ではまず会社という枠組みがあり、その枠組みをいかに拡大するか、そのための社員なのです。個人の生活を潤すための会社組織ではないのです。
 しかし、そんな状態ではだれも仕事をしたくなくなりませんか。
 だからこそ社訓、社歌が必要なんですよ。一致団結の精神を吹き込み、全員が一丸となって仕事に励むことができるのです。日本人はとても献身的精神が強いのです。
 違った角度から見れば、とても洗練された洗脳行為ともいえますね。
 なるほどね。そういう見方もあるのですね。私は日本人は自分たちの精神的なよりどころを「会社」というブランドに求める、そう理解しています。
 会社を経営する人にとって、とても便利な精神構造をしているわけだ。
 でも、経営者たちが「その精神構造を利用してやろう」などと低次元の発想をしているわけではありませんよ。
 献身的な労働が実生活の向上に結びついていないように思えるのですが。
 それが日本の抱えている大きな問題でもあるのですよ。でも多くの人はけっこう現状で満足しているのです。なにしろいったん組織に属してしまえば結婚、子共の学校の斡旋、就職、葬式となにからなにまで面倒を見てくれるのですから。だからみんなでもたれ合いとなるのです。
 しかし、私の属している会社には無駄が多すぎるように思えてならないのです。
 いや、無駄があるからこそ日本社会はよく機能するのです。
 それはちょっと矛盾していますね。
 西欧的に考えればそのとおりですが、日本社会は無駄の中から出てくる一体感が生産性の高さを生んでいるのです。だから極論すれば、欧米風の管理職は日本には必要ないし、存在しないのです。

「掟」と「もたれ合い」

 ソニ—の盛田昭夫さんや、ホンダの本田宗一郎さんのようにリーダーシップを発揮していた人もいるでしょう。
 あの人たちは例外ですよ。大多数の日本の管理職は、社員の個性とか能力をいかに引き出し生産性を上げようかと考えるより、どうしたら社員どうしが調和を保てるかを考えるのです。それが生産性の高さに結びつくと信じているのです。だからこそ会社組織と個人は一心同体との発想が出てくるのです。
 個人がひとり立ちすることは許されないということにもなりかねませんね。
 なかなか鋭いですね。日本人は欧米人のようにポリシーを持って人生を歩んでいませんから、みんなが勝手な方向に動きばらばらになってしまう傾向があるのです。そのためなんらかの求心力を持つお題目が必要となる。それが社訓、社歌でもあるのです。
 もうひとつよくわかりません。
 社訓、社歌は「ムラの掟を守ります」とお互いに誓いあっていると思ったらいいのです。
 しかし、それがどうして生産性の高さに結びつくのですか。そこにあなたの論理に無理がある。
 ムラ社会はとても閉鎖的なんですよ。いつもみんなで一緒にいることが「掟」のなかで最も重要な部分となる。しかもその「掟」は個人の自由を認めない。従順であること。こんな仕組みが生産性の向上に効果を上げているのです。これこそ「もたれ合い」と言ってよいと思います。
 なるほどね。もたれ合いだからこそコーヒーをゆっくり飲み新聞も読めるのですね。
 そう、そのもたれ合いの精神がいちばん顕著に現れている世界が役所なんですよ。だから役所には仕事に対する「三大原則」というのがあるんです。「遅れず」「休まず」「仕事せず」。これですよ。私が役所に入りたてのころ、ある局長が「これさえ守れば、多少できが悪くても最低、課長職につけるから」と忠告してくれました。

「遅れず」

 三大原則を説明してくれますか。
 「遅れず」とは、人より早く出勤して席についていろということなのですが、べつに仕事をするためにではないのです。新聞を読んでいても、マンガを見ていても、お茶を飲んでいてもいい。始業時刻より前に来ていることを、まわりに知らしめることが目的なのです。

「休まず」

 次の「休まず」とは。
 有給休暇はできるだけ取らない。病気になっても、熱で苦しんでいるところを十分に同僚に見せてからでないと休まない。しかも病気で休むときに初めて有給休暇を消化する。公的に保障された病気休暇は使わない。また仕事に関して言えば、残業はもちろん、サ—ビス残業と称する勤労奉仕を行うことが大切だということです。このサ—ビス残業は、形を変えていろいろな形態として存在するのです。思いやり残業、勉強会、研究会、持ち帰り残業、上司との一杯飲み屋へのつきあい、休日ゴルフ、課内旅行、野球大会、運動会、引っ越しの手伝い、結婚式、葬式への列席、と数え出したらきりがないのですが、要するにいかに自分の時間を犠牲にして、組織に貢献しているかを示す姿勢が問われるわけです。
 私もとくに深く考えないで、一杯飲み屋につきあったり、運動会などにも出ていましたが、そういう深い意味があったのですね。
 私は以前に疾病対策課というセクションに在籍していたのです。人間の疾病のほとんどを扱う課だから、厚生省のお墨付きをもらった研究班が多数ある。そこで驚いたのは、この研究班が主催する研究発表会、勉強会が目白押しなのです。しかもそのほとんどが土日に設定されている。そこで私が課に赴任して最初にした仕事が、研究班の班長先生たちに通知を出すことだったのです。
 どんな内容だったのですか。
 今後、研究班会議、勉強会を土日曜日、祝日に開催してはいけない。平日の午前九時から五時の間に行うこと、といった内容でした。なにしろ、厚生省がバックアップしているのだから、担当の私は挨拶に行き、内容を聞いていなければならない。六〇以上の研究班ですから、一年中土日返上で研究班会議に出席することになる。それでなくとも、当時はただ働きの毎日でしたから、これ以上自分の時間がつぶれるのはたまらないと思って出したのです。
 私の会社では外に向けての発言は必ずといってよいほどチェックが入ります。よく日本の官僚組織でそんなドラスチックな(思い切った)通知を出せましたね。
 それはね、役所というところは人事異動の時期は、課内全体がてんやわんやで意外と統制が緩んでいるのです。この間隙をついて通知を出したのです。
 それでも上司のチェックが入るでしよう。
 いや、上司の決裁なしで私の独断で出したのです。混沌としているときは意外と自由に行動がとれるのです。
 それで結果はどうでした。
 上を下への大騒動でした。
 日本にきてまだ時間がたっていないけれど、なんとなく大騒ぎになったことが目に浮かびます。
 その情景が浮かぶようになったのなら、あなたも日本社会をかなり理解してきたといってよいですね。いずれにしても賛否両論で、ある教授は、なんと現実をみていない非常識な役人だ、とかなり辛辣な非難をしてきました。
 あなたの上司にもクレ—ムが行ったのではないですか。
 もちろん、かなりの苦情の電話が行ったようですよ。でもその課長は太っ腹の人だったので、彼の決裁なしで文書が出されたことに文句を言ってきませんでした。それにもまして驚いたのは私の意見をサポ—ト(支持)してくれたのです。
 私の会社は商社ですからお役人との接触が多いのですが、融通がきかない人が圧倒的に多いという印象をもっているのです。でも、なかにはものわかりのいい人もいるのですね。
 ただ、その上司はもう厚生省にはいません。いい、悪いをはっきりと見きわめて、行動をする、そんな役人は出世の梯子をはずされてしまうのですよ。
 なるほど、アメリカとは正反対ですね。しかし、いかに「休まない」ことが日本の中で大きな意味合いを持っているかがよくわかりました。

「仕事せず」

 ところで、次の「仕事せず」と「休まず」は矛盾するように思えるのですが。
 いいえ「仕事せず」とは一見仕事をしているように見せかけながらも、本当の仕事はするな、具体的に言えば、行政官として新規の事業を自分から旗を振ることは避けろ、ということなんですよ。
 いったい、どうしてですか。
 たとえば、ある政策が国民のために役立つとわかっていても、ひとりで動きだせば反対者も必ず出てくる。押し切って政策を実現させれば、失敗したら当然、責任を取らされる。役所は減点主義で勤務評定にはプラスの面はあまり評価の対象にならないのです。いかにマイナスを出さないようにするか。これが役人の真髄なんですよ。マイナスが載ってしまえば出世にひびいてしまう。それに、ひとりだけ抜きん出て自分の洞察力と信念に基づいて行動を起こせば必ず目立ってしまう。
 目立てば出世にも有利でしょう。
 それが、そうではない。目立つことは役所ではマイナス。「あいつだけ格好つけやがって」などと妬みを招きますからね。ある審議官が私を呼びつけたとき、いみじくも「役人の最大の仕事は、いかに他人から足をすくわれないように、生き残りを図るかだ」と諭しましたが、役人の最大の開心事はここにあるといっても過言ではないのです。

「先輩の仕事に異を唱えない」

 ほかにも日本のお役人の特徴ってあるのですか。
 そうですね。「先輩の仕事に異を唱えない」というのも役人の特徴でしょう。だいたい従来の方針を変えるということは、先輩のやってきた仕事に異を唱えるということでしょう。これは行政官としていちばん避けなければならない不文律に触れることになる。だから出世街道を行こうと思う多くの行政官は、「前例」を絶対視するという保守的な姿勢を貫くのです。
 それでは、永遠に新しいことはできなくなりますね。
 日本にしばらく住んでいるとわかるようになりますが、役人が新規の政策に踏み切る場合、必ずその背景に、マスコミとか各種団体が不平不満を、声を大にして叫んでいる、という状況があるのです。それに国会議員の先生たちが加わって問題が大きくなると、役人は初めて重い腰を上げるのです。
 しぶしぶ、ですか。
 多くはね。でもこのような状況で新たな政策をやる場合、自分が好んで先輩を傷つけるわけではないということがわかってもらえるし、もしうまく行かなかったとしても、「俺のせいではない」と責任の転嫁ができるから気が楽なんです。だからこの「仕事せず」の原則は役人としてのいちばん重要なものとなるわけですよ。でもね、本当に優秀といわれる官僚は、「前例」を破りたいとき、逆にマスコミや圧力団体、国会議員などをうまく使うのです。
 日本の役人はかなりしたたかな部分もあるのですね。
 でも、このような官僚はほんのひとにぎりだし、よっぽど機が熟さないとこのようなウルトラCは使えないのです。
 しかし、あなたの言っているような性癖が民間組織に見られるようになったら会社は終わりですよ。
 そこは天下の「お上」ですから、官僚組織がつぶれることはないのです。もしも官僚組織がつぶれるとしたら、それは日本が消滅するときだけでしょう。
 なるほど、絶対に自分の勤めているところがなくならない、と確信を持って行動できることは強いですよね。でも、ちょっと疑問に思う部分があるのですが。
 なんですか。
 もしも、それだけ自分の基盤がしっかりしているのなら、かなりの冒険ができるわけではありませんか。でも、あなたの説明だと役人は冒険をしない。
 それは、さっきも言ったように、役人組織は減点主義だから、本来ならばプラスに働いてよい部分が逆にマイナスに働くのです。これが加点主義だったら、日本の官僚機構はものすごいパワーを発揮するようになりますよ。
 それでなくとも、日本株式会社のパワーは世界を驚かせているのだから、いまぐらいでちょうどいいのかもしれませんね。
 それは違いますね。日本株式会社のパワーは官僚の優秀さに負っている部分もありますが、なんといっても、国民が自分の生活を犠牲にして日本株式会社の屋台骨を支えているからこそ、これまでの発展があるのです。国民が明日から「犠牲になるのはもうやめた」と言い出したら日本はいまの勢力を保つことは不可能です。
 そうすると、「犠牲」の精神を貫くことによって日本の現状に変化をもたらさないほうが、日本は繁栄するということになりますね。
 三大原則を尊重すればそのとおりです。でも「滅私奉公」の精神には自ずから限度があります。これ以上の繁栄を求めようと思っても不協和音を奏でるばかりです。EC(ヨーロッパ共同体)、アジア諸国、そしてあなたの国との貿易不均衡をなんとかしろとの大合唱でしょう。それには減点主義をやめて、あなたの国のように個人個人の有する能力をもっと引き出すようにすればいいのです。そうなれば犧牲の精神が消滅しても競争力は十分に引き出せるのです。問題はそのような簡単なことがわかっていない人が多いことです。

「先憂後楽」と「倒錯」の世界

 それにしても、なぜ役人はそんなに保守的なのでしょうか。
 全員とは言いませんが、幹部クラスのポストに就いた人たちがおかれているライフサイクルが、仕事を保守的な方向へと向けてしまうのです。五〇歳を越えれば人生も終わりに近づくのですから、退職後の天下り先を気にするようになるのは当然でしょう。ひと筋に「先憂後楽」と考えて人生を仕事に捧けてきた以上は、大過なく幹部ポストを終え、その後の人生を何力所かの名の通った財団なり民間企業に天下りしたい。長年の滅私奉公の代償として、高い退職金もそこでもらえるのです。ところが問題を起こしてしまえば全部がパー。双六の上がり近くになって、ふりだしに戻るのはだれだって嫌ですよ。
 わからないことはないけれど、本来、管理者の意義はリスクを負うことにあるのであって、安全第一がモットーなら、高い給料をもらう資格はないですね。
 管理者が高い給料をもらえるのは、日本株式会社のために「滅私奉公」をした犠牲精神に対するご褒美、と考えれば腹は立たないでしよう。
 能力主義はないのですか。
 アメリカ流の能力主義はほとんど見られません。基本的に年功序列ですからね。なんらかの形で人物評価をせざるをえないとなると、いかに自分を犠牲にしているか、いかに波風を立てずにきたか、です。それにはこの三大原則をどれだけ信奉しているかを見るのがいちばん手っとり早いでしょう。
 私には、とてもできません。
 そう、この三大原則を守るのは、マゾヒストになりきらないといけない。
 マゾヒストとの関連性を説明してください。
 だってそうでしょう、仕事がなくとも他人より早く出勤し、同僚が残業で残っていれば、気配りで一緒に残る。病気でもぎりぎりまで休まない。有給休暇があるのに消化しない。そして病気になって初めて有給休暇を消化する。結局自分で寿命を縮める原因を作っているのですが、これらはみんな個人が有する権利を放棄するからこそとれる行動ですよ。日本では苦しみながら仕事をする、そしてその苦しみを楽しみに変える。すなわち「倒錯」の世界に自分を埋没させる能力が問われるわけです。
 「倒錯」とはずいぶん厳しい指摘ですね。
 典型的な例が、日本で夏と冬に行われている、我慢大会と称するイベントです。夏、三〇度以上に気温が上がったときに、どてらという綿が入ったガウンをはおり、火が十分に入った火鉢を囲んで涼しい、涼しいと言い、冬は裸で氷のように冷たい水の中に浸かり、ちっとも寒くないと言う。自分の体に鞭を打つ行為は「心頭滅却すれば火もまた涼し」といった哲学の形態をとり、賞賛される行為となるのです。
 その「心頭」なんとかという言葉の意味を説明してくれませんか。
 昔、快川という禅僧がいたのですが、彼が焼き討ちにかけられた寺と運命をともにしたときに発した句で、精神集中して無念無想の境地に至れば、五感の感覚も失せて火に焼かれても感じないし、どんな苦痛でも耐えられるという哲学です。
 しかし、それはクレイジーだ。焼かれれば熱いに決まっているし、打たれれば痛いのは歴然とした事実でしょう。
 でも、あなたたちの価値観の基本であるキリストもはりつけになったし、ジャンヌダルクも焚刑に処せられた。欧米で聖人といわれる人たちはみんな苦悩の最期をとげています。「倒錯」の世界はどこにでもあるのですよ。
 でも、それはまったく違います。相手を愛するがために犠牲を顧みない。哀れみの精神ですよね。あなたの言っている同僚の気配りは一見哀れみの精神のように聞こえるけれど、ほんとうは哀れみではない。自分の出世のための気配りでしょう。だから日本では自分を愛するが故に自己犠牲をする。欧米の犠牲の精神は他愛主義に基づくのです。
 なるほどね。たしかに日本では「天上天下唯我独尊」が悟りの境地とされていますが、「汝の隣人を愛せ」とは対照的な哲学です。
 欧米では、自分を痛めつける行為はどこか精神状態がおかしいからおきるのであって、正常な精神状態の人は自分をわざわざ痛めつけるようなことはしませんよ。
 アメリカに長く居すぎたせいなのか、その部分は私も同感なのです。だからこそ、「倒錯」の世界だと呼んでいるのです。
 私など苦しみながら仕事をするなら、しないほうがましだ。苦しみが、楽しさに変わるはずがないでしょう。その哲学は、現実から逃避し、「倒錯」の世界に自分を浸せと言っているのに等しいです。
 多くの日本人は「だから外国人は日本人の心を理解できない」と言うのです。まあ、そういう意味では日本人は特殊ですよ。また、その特殊であることに陶酔している日本人が多いことも事実です。

「汗をかく」、「足を運ぶ」

 ただ私も日本に帰ってからだんだんわかってきたのは、欧米では異常性格の人しか起こさないような行動を、日本では精神的にどこもおかしくない人が率先して起こすのです。だから一様に欧米の尺度で日本を見ることにはちょっと無理があるのです。
 その論理は日本人は特別だ、につながります。私は日本人もアメリカ人もみな生まれたときは同じだと思っています。現に、日系アメリカ人はあなたたちのように犠牲を好みません。
 日本では心の持ちようでかなりの逆境にも耐えられる、と信じられています。どれだけ逆境に耐えられるか、その訓練を幼少のときから受けるのです。だからマゾヒスティックな部分が強調されるのです。ひとつの精神主義なんですね。
 気を悪くしないでくださいね。日本はそのような精神主義に頼りすぎたため、第二次世界大戦で連合国側に負けたのではありませんか。
 おっしゃるとおりです。ですから私も「成せば成る」などに代表された精神主義には限界があると思うし、自己犠牲を美化する主義で、アラブ原理主義の世界に生きているのならともかく、先進国の中では受け入れられないことは十分に承知しています。なにしろ日本の精神主義は「神風」という幻想を集団で共有するところまで行ってしまったのですからね。
 であればですよ、苦しみが楽しみに変わるとの感覚は、どこかがおかしいことに同意できるでしょう。
 まあ、極論すればそうかもしれませんが、一般的な生活の中で、多くの日本人にとってこれらの苦行が意識の上で苦しみとならない、ということを理解してもらいたいのです。心のどこかでチャンネルの切り替えがあり、苦しいと思える状況が、楽しみへと昇華するのです。それが証拠に、苦しみを味わっていると思う人たちに「苦しい」ですかと聞いてごらんなさい、「とんでもない、楽しいですよ」との返事が返って来るはずです。
A ほーう。
 その典型的な例が「汗をかく」という行為。いかに自分の能力があろうと、みんなが嫌だと思っていることを進んで行い「私は集団のために犠牲になっていますよ」という態度を見せびらかす行為ですからね。私も厚生省に入省したてはイヤイヤながら、コピー取りから掃除までしたものです。
 でもあなたは「イヤイヤながら」でしょう。それは正常な感覚です。しかし、アメリカでキャリアを積んだドクター、それが役所に新入りとはいえ、コピー取りですか。
 みんなといっしょに無駄を共有するかの発想は、役所のようなムラ社会で生活してゆくための生活の知恵なのです。例をあげて説明しましょう。ある団体が役所から補助金を増やしてもらいたいと思ったとします。そのとき、アメリカでよくあるように自分の考え方の素晴らしさを手紙に書いて送ったり、だれか著名な人の推薦状をもらってくるなどしても、効果はあまり期待できません。
 どうするのですか。
 その担当者のところに、用もないのになん度も足を運び、担当者がいない場合は名刺を置いて帰る。これをくり返せば、置いていった名刺の厚さが増える。この厚さが補助金の配分を左右することもあるのです。お百度を踏むことによって、限られた貴重な時間を犠牲にしている、ということを印象づける。これが担当者の心を揺さぶることになるのです。「ちょっとご挨拶にうかがいました」という、この種の来訪者が、実は私には迷惑なことが多いのです。仕事を中断して、大して意味もないよもやま話をせざるをえないのですから。そこで来客はアポイント制にすると言いだしたら「本来の重要な仕事は、午後五時以降にするものだ」とね。
 アメリカではなん回、足を運ぼうと、プロジェクトに魅力がなければ補助金などもらえません。それにひとつの地位を確立した人が、自己犠牲の精神を周囲に見せるためコピー取りとかオフィスの掃除をするなど考えられませんよ。
 私も最初はビックリしましたよ。でも日本社会では「汗をかく」との思想は、集団の生産性を上げ、組織を拡張するためには有効な手段だ、と認識されているのです。
 そうですか。でも能力のある者をリーダーにして集団を引っ張っていけば、かなりの生産性が発揮できるし、創造性に満ちた対応も可能になるはずですよ。
 創造性を言うなら、たしかにそうでしょう。しかし、リーダーレス社会の日本でも、十分に欧米諸国と競争できるどころか、勝っているではないか、という論調が幅を利かせてきていますよ。

他よりすぐることなかれ

 お話を聞いていると、日本と競争するには我々も同様に個人の生活を犠牲にせざるをえなくなるかもしれませんね。
 どちらの土俵で競争するか、です。ただ「汗をかく」発想は、教養という大切なものが身につかないという欠陥がある。
 自分の時間がなく、四六時中、仕事に追い回されていれば、文化的素養を身につける時間がありませんね。
 そのとおり。また不思議なことに役所のような集団社会では、教養をみんなの前で出すことは、マイナスになりこそすれプラスにはならないのです。
 それはまたどうして?
 局長を退官された方が私にこんなことを言いました。「僕はどれだけみんなの前で文化の香りがするような話を避けたか、数えきれないよ。君も十分に注意したほうがいい。下ネタの話がいちばんよいのだ。大多数が共有できる話をする。これが処世術として大切だよ」彼は、マキャベリが『君主論』(岩波文庫)の中で「出世したければ、自分がいかに他人より洗練されているかを示してはいけない」と書いてあることをもっと端的に言ったのですよ。
 でもアメリカでは教養は大きな武器です。文化とか教養は、創造性と密着した関係にあるのではないですか。それに、人間は一人ひとり違い、おのおのの個性を引き出そうとする教育を行えば、人それぞれなんらかの能力を発揮できるようになると思うのですが。それが教養を培うのではありませんか。
 日本は違う教育方針をとるのです。みんな等しく同様に、という原則が大切なのです。社訓を唱えたり、用がなくとも遅くまで残ることは、「個」を捨て組織のために犧牲となることを誓いあう儀式でしょう。三大原則は日本的平等主義の教義とも言えるのです。
 アメリカでは地位が上になればなるほど、能力もあるし、当然、頭のキレ具合も鋭い人となるのですが、年功序列ではちょっと違うのでしょうね。
 ちょっとどころではありませんよ。役所では上司の「能力」が部下より劣ることはよくあるんですよ。できの悪い上司の下で仕事をするのも我慢のうちとされ、「よくあの上司に仕えたものだ」と賞賛される。それに役人は二年もすれば違うポストにつくように人事が組まれているから、我慢できるのですよ。
 どうして二年間なのですか。
 官僚構の権限は大きいため、その上にあぐらをかかないように一ポストを短期間に制限しているのがひとつ。それから、能力主義より調整主義だから、スペシャリストの養成は重んじないのです。まんべんなく、なんでもこなせる雑用係のほうがよしとされる。そのためにもひとつのポストは二年程度がいいのでしょう。
 スペシャリストよりジェネラリスト、ですか。
 スペシャリストとなると、すくなくともその分野では他人より秀でてしまう。根底には「妬み」を出さないようにしようとの狙いもあるのです
 「妬み」ねえ、もちろんアメリカにもあるけれど、ひとつの社会がそんなに妬みの封じ込めにウエートを置いているなんて、信じられない。だいたい、西欧諸国は妬みの発想をすること自体が悪で、キリスト教の原点である十戒にも「汝、妬むなかれ」とあるぐらい。だからといって妬みが出てこないとは言いませんが、妬みがわかってしまうと軽蔑の対象となってしまうので、極力見せないように努力しますよ。それができない人は社会の底辺をうろつくようになるのです。それに他人の妬みなど気にしていたら、自分のポリシーを持って人生を歩むことなどできません。個人の能力を重視した社会では、目立つことは避けられないですね。 日本社会を「妬み」というプリズムを通して見ると、いろいろな現象がよく理解できるようになります。

ムラ社会の教義と寛容の思想

 日本は理解すればするほど欧米と異なっているのがよくわかります。我々の会社では昼休みにラジオ体操と称するストレッチを全員でやっているのですが、あれがまた不思議なんですよね。
 ラジオ体操をストレッチと見てはいけないのですよ。役所でも三時にラジオ体操をしますが、これは社訓を一緒に唱えているのと同じで、みんなそろって体操をすることに意義があるのです。
 ムラ社会の教義として見るべきなのですか。それなら理解できますね。でもあなたのように長年、アメリカに住んだあと、ムラ社会の論理の中で生活するのはたいへんでしょう。
 日本の、しかも役所の論理にとけ込めない部分があることは事実です。ただ、アメリカでの徹底的な論理の攻防という流儀に終始するのは、これはこれで、けっこう疲れたものです。だから日本独待のやりかたも意外と居心地がよく、私も複雑な気持ちの中で毎日を送っているのです。
 たしかに人間関係に優しさが存在しますよね。
 その優しさがいまの日本の成功の秘訣だ、と言う人もいるのです。現に海外で日本的システムを取り入れている国々もいくつか見られるようになっていますからね。アメリカでもかなり影響が出ているでしょう。あなたが日本企業に勤めているのも、そのへんを学ぶことにあるのではないですか。
 そこを突かれると弱いのですが、私は寛容、優しさの陰に隠れた、おせっかいの精神が鼻につきます。それと個人の生活の重要性を無視する部分が納得できません。
 よくわかります。それに役所のようなところでは、寛容の思想にあぐらをかいている部分がありますね。それが非効率につながっていると言えるのです。たとえば勤務時間中に床屋に行ったりテレビを見たり。だから必然的にだらだら遅くまで残っていることになり、自分の時間がなくなってしまう。
 仕事中に床屋とは驚きだ。公私混同じゃないですか。
 そんな堅いことを言ってはいけません。「私」といったって、家庭は仕事場の延長で、企業戦士を生み出す工場みたいなところでもある。大多数の日本人男性にとって家庭は存在しないのですよ。官僚社会ではなおさら「公」と「私」の境界線が曖昧、というより「私」の部分は存在しないといってもよいのです。だから床屋という「私」の部分が月に一回ほど入ってきても、許されるのですよ。
 しかし家庭と職場のきちんとした線引きがされていないとは信じられない話だ。
 日本社会では、属している組織が家族より優先するのです。
 チャールズ・チャップリンが「モダン・タイムス」で、近代化していく社会の中で働く人々が組織の歯車となり個性を失う可能性に警告を発していましたよ。日本社会では彼が危惧したことが現実となっているようですね。
 しかし日本では、その歯車のひとつになることに生きがいを見いだしている人が圧到的に多いのです。
 その代償が勤務中の床屋、ですか。
 これはアメリカのウーマンリブの人に言っては困るのですが......。
 なんですか。
 実は男性は床屋に行ってもよいが、女性が美容院に行くのは認められていないのです。
 おや、それは問題だな。男女差別だと非難を受けますね。
 だから言っては困るのです。
 私のワイフは、日本の女性はもっと目覚めるべきだと息まいていますよ。
 そうでしょう。男性の私でも、その気持ちがわかります。役所では女性は末席に座ると決められています。キャリアの女性は別ですが。それに加え、男性にかしずくことが第一との暗黙の価直観を強制されます。あなたの国の女性だったら、一時間ともちませんよ。

男性はよくて、女性はだめという規則

 男性はよくて女性はだめ、という規則は役所ではけっこうあるのですか。
 役所は建て前を大切にしますから、女性だからだめ、などと本音をあからさまに言ってくることはありません。むしろ、女性はいっしょに飲みに行かなくともよいとか、ちょっとみんなで食事に行くときは彼女たちに、どこがいいかをきいたりして、なんとなく特別扱いをする。でもその特別扱いがくせもので、そうすることにより男性と一線を画すようにしているのです。このごろアメリカで、女性が管理職から上に行こうと思ってもガラスのシーリング(上限)が邪魔している、という論調がありますよね。日本では天井だけでなく壁もあると思えばわかりやすいかな。なんだかんだと理由があって、結果的には行動を共にできないような仕組みになっているのです。
 差別のしかたが洗練されていますね。
 役所の私以外の男性たちは差別とは思っていませんし、女性のほうも差別と思っていない人が多いのではないかな。
 私の会社には女性が多くいますが、男性は彼女たちにお茶くみとか、おやつを持ってきてもらうとか、期待しているのです。
 そう、それをする女性ほど可愛がられるのです。基本に「女性は自分たちよりも下」という発頃があるのです。
 アメリカでもつい三〇年程前までは、差別が当たり前だったのですから、あまり大きなことは言えませんが、すくなくとも私の国では、差別はいけないと思い差別をなくすために法律も作られました。でも役所のように建て前と本音が使い分けられる組織ですと、いくら法律があっても、本質が変化するのはたいへん難しいでしょうね。
 役人社会というところは、日本でもいちばん保守的な部分を温存しているところです。一般社会では男女平等の考え方の理解がだいぶ進んできたと思うのですが、ご指摘のとおり役所はきっと将来、男女差別が最後までなくならない可能性はありますね。
 アメリカで、女性に「お茶をくんでこい」などと言おうものなら吊るし上げをくらいますよ。

「曖昧さ」と「大人である」

 ただ、アメリカのように、白黒を明確にしないところに日本のよい部分もあるのです。男女平等が大切だ、と叫んでいたら角が立つでしょう。曖昧さの中に生きていく。これが日本の生命力の強さかな。だから生産性も高くなるのです。
 勤務時間中にテレビを見るのも、その曖昧さですか。アメリカだったら首になります。
 そうでしょう。でも日本では、みんなが大目に見るところがあるのです。日本人のほうがそういう観点から見ると、寛容性があるのかもしれませんね。ところで、そういうあなたの国でもスペースシャトルの打ち上げとか大統領選挙の結果などは、仕事中でもみんなテレビの前に集まっていましたよね。
 それはそうですが、例外中の例外ですよ。
 役所では国民的行事として暗黙の了解をえているものはかまわないのですよ。
 国民的行事ってなんですか。
 国会中継、高校野球、大相撲、オールスター戦、日本シリーズ、オリンピック、アジア大会、皇室の重要行事……。
 国会中継はわかるけれど、野球とか相撲は仕事と開係ないはずですよ。それに役所はいろいろな人々が出入りするでしょう。クレームがきませんか。
 日本の液晶技術は世界一ですよ。液晶テレビを見ながら、コードレスイヤホンを耳に入れておけばだれもわかりませんよ。それに役人は国民の行政を司っているのです。だから国民が全員そろって見たり、楽しんだりすることに対しては、きちんと情報をえておく必要があるのですよ。
 口実にすぎないと思いますね。それに国民が全員一致してひとつのことに熱中するなんて考えられない。
 アメリカのスーパーポールがあるでしょう。
 でも嫌いな人もたくさんいます。
 日本では国民的と名がついたら、全員が好きになるのです。ゴルフでもカラオケでも同じです。集団がよしとしたら、みんな右へならえとなるのです。
 信じがたいですね。でもそう言われてみるとなるほどとうなずける現象がたくさんありますね。
 そうでしょう。みんな同じであることは、日本の社会で生きて行くうえでとても大切なことなのです。
 しかし、好きになれない人はどうなるのですか。
 集団の論理が徹底しているので、あまり、そのようなことは起きませんが、場合によっては好きだと自分に信じ込ませるのです。この能力に長けている人が日本では出世するのです。
 でもそれは恐ろしいことですよ。自分の気持ちに嘘をついて生きることになる。
 日本人は本音と建て前を使い分けますから、心の葛藤としての問題にならないのです。もう一歩突っこんで言わせてもらえば、本音と建て前を上手に使いこなし、葛藤がまったく起こらないことが「大人」として認知されるのです。だから私のように、いつも正直に本音ばかりいう人間は「いつまでたっても子供だ」とバカにされるのです。ここが日本とアメリカの最大の違いなんですよ。
 ジョージ.オーウェルが『1984年』(ハヤカワ文庫)という本で、全体主義社会を批判していますが、その中で全体主義社会を維持していくには、二重思考(ダブルシンク)という考え方が必要だと書いてあります。二重思考とは、ひとつの精神が同時に相矛盾する二つの信条を持ち、その両方とも受け入れられる能力である、と定義されていますが、建て前と本音の使い分けはまさしく二重思考なんですよね。きっと日本人は、ファシスト的な権力者がひとつの方向に導こうと思ったら、とても情報操作のしやすい国民ではないですか。
 おっと、物騒な話になってきましたね。だから第二次世界大戦のような結末になったのですよ。それ以来、日本人は権力者には疑念を持って臨むようになっているのですが、自分の意志に反してひとつの方向に進む可能性は十分にあるかもしれませんね。

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