社畜ムラの
「いじめ」の心理分析

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宮本政於『お役所の掟』より

「いじめ」はムラ八分を武器に、人間の深層心理を攻撃し不安をかきたてる。「我々は君をひとりぼっちにするよ」「我々から離脱すると生活できなくなるよ」などはその典型だ。「いじめ」は手を替え品を替え、精神的圧迫を加える。陰湿なこと極まりない。そのため「いじめ」は心に大きな痛手を残す。いじめがはじまった年齢が若ければ若いほど、傷跡は大きいと考えてよい。「いじめ」に対する罪は重いのだ。

いじめは一種の迫害行為である。残念ながら、この不名誉な「いじめ」という行為は、日本文化の象徴ともいえるのだ。「いじめ」は入省してから一年間執拗に続いた。ところが二年目に防衛庁に出向するとなくなってしまった。知りあいの課長はその理由を、「出向組は、『お客様』なのだ。だからこそ「いじめ」がないのだ。それだけ、気を引き締めて相手から後ろ指を指されないようにしなければならない」と説明してくれた。「お客様」でいる限り「いじめ」にあうことはない。「ムラ」を訪れた「お客様」には外面だけの二コニコ対応となる。が、けっして「ムラの内」には入れてくれない。「いじめ」という通過儀礼を受けて初めて「ムラ」社会の一員になれるのだ。だが、このような前近代的な儀式が、官僚組織という国際社会にいちばん近いところにいる人々の中でまかり通っていること自体、日本の国際化のレべルがどの程度なのかを物語っている。

全員が「いじめ」を楽しんでいるわけではない

こうして「いじめ」に鍛えられた私だが、役所の人がみんな「いじめ」を楽しんでいる、とは思わないでほしい。私に助け船を出してくれた課長のように、なかには心の優しい人もいるのだ。ある日、いつものように「いじめ」の総攻撃を受けていると、ある同僚が、「宮本さん、ちょっと」と言って私を廊下に呼び出した。「僕も、宮本さんが来るまでは、『いじめ』のターゲットだったんだ。あの人たちも根は悪くない。しばらくの我慢だ」と言って慰めてくれたり、遅くまで仕事をしていると、早めに帰れるように段取りをしてくれたり、いろいろと気を遣ってくれた。あるときは、過去の書類が必要となったが、入省したばかりで、どこにその書類があるのかまったくわからずに困っていた。書類を求める係長は、どこにあるのか知っているのに教えてくれない。それでいて、仕事が遅いと文句を言ってくる。そのとき年輩の課長補佐が私と係長のやりとりを見ていて、「彼も悪気があって言っているのではないのだから、許してやってくれ」と言って、必要なファイルを手渡してくれた。

役所の中には、私以外にも「いじめ」の試練をくぐり抜けてきた人たちが大勢いる。彼らは、いじめられることが、どんなに心身にプレッシャ—を強いるかよく知っている。だから、「いじめ」を受けている人に対して助け船を出してくれるのだ。たまたま私と帰りが一緒になったある係長は、吊り革につかまりながら、「たいへんですね。知らない世界に飛び込んだら『いじめ』の洗礼を受けるのだから。わからないことがあったら、いつでも来てください、教えてあげますよ」と言ってくれた。「いじめ」を受けている最中に、助けを差しのベてくれたときの、ありがたみは口では言いあらわせないぐらいだ。こうした親切がなかったならば、いくら神経の太い私でも、役所生活に見切りをつけていただろう。当時、優しく手を伸ばしてくれた人々に「ありがとう」とお礼を言わせてほしい。

欧米では異常心理のひとつとされる

「いじめ」は世界に共通する現象である。精神的に弱い者、肉体的な弱々しさ・障害を有する者、なんらかの理由で周囲から妬まれる者、などに対して「いじめ」が行われる。特に一五〜一六歳ぐらいまでの若年層ではよく見られる現象である。私は役所での「いじめ」にあってから、日本には他の国には存在しない独特の「いじめ」があることに気がついた。日本では「いじめ」は集団社会、それも大人の社会の中で、認知された行為なのだ。ここが欧米社会とは根本的に異なるところだ。

私が住んでいたアメリカ社会では、思春期を過ぎると、すくなくとも大衆の面前での「いじめ」の行為は、見る機会がほとんどなくなる。集団として個人を「いじめる」などの行為は絶対と言ってよいほど存在しない。欧米社会では「いじめ」は子供が持ちあわせる心理と考えられている。しかし、大人へと成長するに従い、「いじめ」の心理は無意識の世界に埋もれていく。欧米諸国では「いじめ」は「相手が苦しんでいるのを喜んで見ている」行為と考えられ、異常心理のひとつと診断される。だから、大人で平気で「いじめ」を行う者は、幼児的心理状態から抜け出られない者、精神が未発達の人間と見られ、軽蔑の対象となる。場合によっては精神状態がおかしいのではないかと思われる。相手を「いじめ」て喜ぶ心理は、サド・マゾの世界に浸っているのだ。だから、「いじめ」を率先して行う者は、性的倒錯の世界、異常心理の世界に自分を埋没させているとも言える。

度合いの違いはあるものの、「いじめたい」との願望は、ほとんどの人間の心のどこかに潜んでいる。だが、通常は心の奥にしまいこまれ顕在化されていない。だが、戦争、暴動、災害など特殊な状況下では、それらの刺激が潜在意識に加わり、自分を抑制する部分が取り去られ、「いじめたい」という心理が、残虐性へと発展することが多い。ナチのユダヤ人迫害がよい例である。あれだけ徹底的に迫害が行われたのは、一般人が集団として意識的、無意識的にナチのユダヤ人迫害をサポート(支援)したからである。「いじめ」を完全になくすることは不可能である。しかし「いじめ」の心理が顕在化しないように、抑制することはできる。ところが、集団という中に入りこむと、いったんだれかが「いじめ」の口火を切ると抑制がきかなくなり、「いじめたい」という願望が顕在化してくる。とくに自分の衝動の抑制を集団という形態に求めている場合、「いじめ」は大手をふって歩き出す。ちょうど私の役所での経験がよい例だ。

犯罪者扱いをうけるのは当たり前

私は帰国してから「葬式ごっこ」の話を聞いた。「いじめ」との関連性を示す前に、「葬式ごっこ」事件を知らない人のために手短に、どんな事件であったかを説明しよう。ある小学校で、いつもいじめにあっていた男の子がいた。ある日、新しいいじめ方をためそうと、クラス一同でその子があたかも死んだということにしたのだ。そして、クラス単位の葬式を行ったのであった。「〇〇くん、さようなら」などのお悔やみの言葉が色紙につづられた。この「葬式ごっこ」がマスコミで話題になった理由は、いじめられた当人が自殺したことと、担任の教師までが、一緒になって「葬式ごっこ」の片棒を担いでいたからである。このような「いじめ」は人間の残虐さの露呈である。しかも、教師まで一緒になってとは。これがアメリカ社会で起こったならば、その教師は教職を追われるだけでなく、犯罪者として刑務所送りか、精神異常者として精神病院に収容される運命をたどるだろう。私はこの事件を聞いたとき、同じ日本人の中でどうしてこんなことが起きるのだろうと、恥ずかしく思ったのであった。

「いじめ」退のノウハウ

私は厚生省で「いじめ」にあっているとき、おもしろい事実に気がついた。それは「いじめ」を行っているボスも、無言のうちにサポートしている人々も、きちんとした自分の見解を持っておらず、「個」の確立が不十分であることである。また、これらの人々に共通していることは論理的展開をすることが難しく、情緒に流されやすい性格であるということだ。この事実が私に、「いじめ」に対する反撃のとっかかりを与えてくれた。私の「いじめ」に対する対処方法は、そのリーダー格とさしで話をし、論破してしまうことであった。「個」がないと、不思議と論理立って攻めてゆくと、たちまち自己崩壊をおこしてしまうのだ。この方法を取ると「いじめ」は二度と起こらない。おかげで、私はこれらの戦術を使った結果、だれもが踏みこんでこない、自分の世界を作り出すことができた。ただ、この手法を使った場合、孤立してもかまわない、という覚悟が必要であることをつけ加えておきたい。

「いじめ」の洗礼を受けていて、もうひとつ気がついたことがある。それは、いじめられていても、応えていないことがわかると、まわりはほうっておいてくれるのだ。しかし、そこまで持っていくのがたいへんだった。そこで、「いじめ」に困っている帰国子女(大人も)のために、私が習得したいじめ撃退のノウハウを書いておこう。

一 集団に弱みを見せるな。
二 開き直りが大切だ。
三 自分の持っている能力を強調する。
四 相手の弱みを攻撃しろ。
五 相手に恥をかかせろ。
六 相手に自分の強さを知らせろ。

「いじめ」は形を変えた「差別」である。国際化の第一歩は、自分の属している組織に異なった面値観を持つ者がいた場合でも、それを共有できるような寛容さを培うことからはじまるのではないか。異質な者を「いじめ」で排除し、「内」の調和を保とうとの発想は、「差別」を助長するだけだ。「いじめ」現象が新聞紙上を飾らなくなったとき、初めて日本社会は国際化したといえるのではないか。

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筑紫哲也×C・W・ニコル×宮本政於
『他人の問題 自分の問題』より

いじめというのは、どこの国だろうとどの時代だろうと、存在していると思います。ただ、欧米諸国ではそうした対応は子どもの時代だけであって、成長していくにつれて、いじめというのは消えていくわけです。ところが日本の社会では、いじめという行為は大人の社会にも当然のことのようにして存在している。ここが他の先進諸国と異なる部分です。しかも大人の社会におけるいじめは組織ぐるみとなり、辛辣を極めます。

筑紫さんが語った「いじめ」は子どものときの経験ですが、その状況を分析してみると、「内」と「外」の心理が背景にあることがわかります。「内」に入ってこようとする新参者にはいじめという通過儀礼が加えられる。そして、この「内」と「外」の心理は大人の社会にも存在している。現在の大人社会に存在している閉鎖性、そしてその症状として出てきている「いじめ」に焦点を当てない限り、学校で起こっている「いじめ」問題は決してなくならないと断言できます。

いじめを日本の社会現象のひとつだととらえて分析していくと、ここに日本的集団主義は全体主義の焼き直しだという本質が見えてきます。「皆同じである」ことにより、組織体を構成している人たちは「安心感を持つ」ことができる。

僕は、日本社会で起こっているいじめの最大の問題点は、いじめている側に≪いじめている≫という認識が欠如しているということだと思うんですね。場合によっては、いじめは「シツケ」だと思い込んでいる人もいるくらいです。皆と同じであることは善である、という認識があるからいじめは正当な行為となってしまう。これではいつまでたっても日本社会からいじめはなくなりません。

仮に皆と同じになるためのいじめに抵抗し続けたとしましょう。そうすると集団は「この人間はムラ組織にはなじまない」と判断します。そこで「いじめの質」は変化します。どのような変化かというと、今度はムラ社会からの「排除のいじめ」がはじまるのです。ですから、いじめという行動様式は、日本的集団組織のなかで非常に重要な部分を占めているのです。

そこで「いじめ」を日本の社会現象のひとつだととらえて分析してゆくと、ここに日本的集団主義は全体主義の焼き直しだという本質が見えてきます。「いじめ」を通して国民を「皆同じ」にするわけです。戦前は銃剣により軍部官僚は大日本帝国という全体主義に国民を引きずり込みましたが、戦後は「いじめ」により日本株式会社という全体主義が維持されているのです。

しかも国民は教育により独立心の芽を摘まれていますから、「皆同じ」であることが安心感につながります。でも安心感には代償を払わなければなりません。その代償とは物事を「自分の問題」としてとらえられなくなることです。だから国民は羊のようにおとなしくなったのです。組織体を維持していく側からすればこんな都合のよい状況はないでしょう。

ようするに「いじめ」を使って国民を全体主義の中に閉じ込めておくことができるのです。誰が考えだしたか知りませんが、素晴らしいテクニックであることだけはたしかです。残念ながら、「いじめ」は日本の負の文化として社会の中に深く巣くっているのが実情です。

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