言論統制を敷く社畜

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宮本政於『お役所の掟』より

「君は僕にけんかを売っているのか」

私は日本に帰ってきてまもなく、同僚を交えて精神保健の今後のあり方について議論をしたことがある。そのとき、「○○さん、あなたの意見には賛同できません。なぜなら、△△の理由でXXの部分の分析が適当でなく、そのためあなたの最終結論の信憑性に疑問が生じるからです」と論じた。私はてっきり今度は彼が私の理論構成の難をついてきて、議論が盛り上がるだろうと思っていたところ、「君は僕にけんかを売っているのか」と言い返されてしまった。けんかをふっかけるつもりは毛頭なかったものだから、その趣旨を説明してなんとかその場をつくろったが、彼とはそれ以後、まったく疎遠になってしまった。

このような失敗を重ねた結果、私は日本人がなぜ本音と建て前を使い分けるのか理解ができた。怒り、妬みなどの「攻撃的な感情の対立」を極力、避けたいからだ。欧米諸国は本音と建て前の使い分けなど行わない。小さいときから、論理立った対応に慣れているため、怒り、妬みの感情を制御する手法を習得している。NOを言われても動じず、相手にも堂々とNOを言う。この対応ができてこそ大人の社会へのパスポ—トを手に入れることができる。

反対に、日本ではできるだけNOを言わないように努力する。日本人は自分の中にある「攻撃的な感情」の制御に慣れていない。そのため、いったん出はじめると、止めようがなくなる。そういう習性を無意識のうちに理解しているからこそ、建て前.本音の文化が形成されたのだろう。お互いに甘えあうことができるという認識が存在するからこそ建て前,本音が成り立つのだ。だが甘えの文化から発祥する建前・本音の行動形態は、欧米から見れば幼児的と取られてしまう。

徹夜続きだったPKO(国連平和維持活動)国会、その取材にあたっていた友人の新聞記者が、疲れきつた顔で私にこうぼやいていたのを記憶している。「強行採決、牛歩、議員辞職願……。どうして日本の国会議員はこんなに幼児的なんだろう。言論の府とはいうけれど、ここは説得力のある言論戦をじっくりかわそうとか、互いの議論の中から妥協点を見つけようとかいう場ではない。自分たちの建て前をいかに貫くか、いかに建て前を立派に見せるか、という争いの場でしかないんだよ」建て前だけの民主主義を大切にする国会。与野党関係なしに、全員一致をよしとする国会議員。こんな国会を民主的だと賞賛している議員先生は、もう一度小学生と一緒に「みんしゅしゅぎ」とはなにかを勉強し直すベきだと思つてしまう。

おっと危ない、私も役人の端くれだ。国会議員の批判、まして政党の批判など役人には考えられないという美しき習慣にこれ以上逆らうのはやめよう。だが、せっかく一九九二年の五月から公務員にも「週休二日制」が導入されたばかりというのに、国会職員たちが徹夜徹夜の滅私奉公を強いられたこと、そして霞が関の官庁街でもかなりの人々がこれにつきあわされた、ということは伝えておこう。もちろん、だれも「不平の声」をあげることなく。

嘘を許容する日本流配慮

「みんなに迷惑をかけるようなことだけはしてくれるな」
私に好意を持ってくれている幹部からの、この注意にも、興味深いものがある。組織の責任体系がすべて長のところにいくシステムのもとでは、「私に迷惑をかけるな」との声は決して聞かれない。その代わり、「みんな」という代名詞が使われる。日本の組織では、組織を構成する人々に「一心同体」を求める。その結果、個人の見解が「みんな」という言葉にすり替えられ、相手に無言の威圧感を与える仕組みになっている。組織にとってマイナスとなりそうな考え方は『ひとりよがりで、わがままだ』とみんなが言っている」と断罪される。日本では、みんなと異なることは、即「わがまま」と非難される。欧米諸国では、きちんと論理立てて自己主張ができる者は、少数意見の持ち主としてむしろ尊重されるのに、である。

「迷惑」という言葉もくせものだ。迷惑とは相手(個人の単位でも集団でもどちらでもよい)に失望、不満、不快、不安、怒りを与えることである。もちろん、「迷惑」を感じる側には個人差があり、ある人によっては迷惑でも、違う人にとっては迷惑でないこともある。ところが、「みんなに迷惑がかからないようにせよ」となると、自分を抑えざるをえない部分が圧倒的に多くなり、「個人」の意見を主張することはたいへん難しくなる。「個」を主張することは、必然的にだれかの失望、不満、不快、不安、怒りなどを引きおこす。結果として誰かが「迷惑」を受けることになる。「みんなに迷惑をかけない」ようにするには、人々の感情を刺激しないレベルの発言内容にとどめるしかない。そればかりか、嘘を強要されることもある。真実を言わないでいれば、迷惑をかけなくてすむような状況の場合、真実のほうは隠せということにもなりかねない。極論すれば、迷惑をかけないためには嘘をついてもよい、ということにもなる。

このような対応は、なにごとも勇気をもって真実を直視すべきだ、というキリスト教文化を基礎としている欧米諸国との、文化摩擦の原因のひとつになっているような気がする。なぜなら、「多少の迷惑がかかると思っても、嘘だけは言うな」「真実を直視できない者は、人間としての弱さの露呈である」というのが欧米流の考えであり、嘘を許容する日本流の「配慮」など通用しないからだ。

「役人の美徳」

「個」を主張しないことは官僚社会の重要な価値観である。ある局長は、今回の掲載に当たって、私に次のように諭した。「官僚は価値観を持って行動をしてはいけないのだ。しいて言うなら、『滅私奉公』が唯一の価直観で、『先憂後楽』こそ、官僚の目指す道なのだ。次官でやめた人は、やめて嬉しそうな顔をしている。やっと人生を楽しむことができるからだ。君はその逆をしようとしている。『先憂後楽』の喜びがわからないというなら、役人の資格はない」この意見もたいへん興味深い。役人の美徳を説くこの言葉こそ、官僚の世界だけでなく、「個」が確立しない日本の社会構造を暗示しているからだ。「『役人』は『役者』と同じように、与えられた仕事は、なんでもこなせるようにならなければいけない。自分の好みなど出してはいけない」これは、私が入省して間もないころ、ある幹部から言われた言葉である。役人という言葉を見ると、「役」と「人」との二文字から成立している。すなわち、与えられた「役」を上手に演ずる「人」が役人なのである。だが、与えられた役・仕事をなんでもこなすこと。これはそう簡単なことではない。人間だれでも好き嫌いが出てくるからだ。とくにポリシーを持って仕事をしようとすると、方向性が大きく変わってしまったりする。

私が疾病対策課に異動となった第一日目のこと、自分の持ちものをデスクの上に置く。たまたま、その中に日刊新聞の「ヘラルド・トリビューン」や週刊誌の「タイム」があったからだろう。それを見ていた課長が、「人が変わると、デスクの上も変わるもんだ。しかし、デスクの上が変わるのはかまわないが、仕事の内容はきちんと継続性を持たせておくことが大事だぞ」と、ちょっと心配そうに、私に忠告したことがあった。与えられた役を好き嫌いなく遂行する官僚主義にどっぶり浸かった役人にとって「個」の形成は邪魔以外のなにものでもない。だから、新しく課長の補佐となった私の持ちものから、「この男は『個』を主張する可能性がある」と思い、「大丈夫かな」との不安が生じたのだろう。

そこで、官僚に代表される、大組織の世界が、「個」の否定を大前提にしているとして考えると、なるほどと思いあたるフシが多々ある。「大過なく」に代表されることなかれ主義、自主性.独創性の否定、自由競争よりは悪平等、ポリシーより調和、能力より年功序列などは、この基本がなくしては成立しない。根回しによる「みんなで渡れば恐くない」的状況の形成……これらはすべて「個」の徹底した否定とからみあっている。

幹部たちが例外なく力説した事項に「外に出たらなにをしてもかまわない。だが『内』にいる間は言いたいことがあっても我慢しなければならない」ということがあるが、この「内」の論理は「個」の否定と密接した関連を持つ。そこで、もう一度、幹部たちとの具体的やりとりに沿って「内」の論理について検証することにしよう。

「内容などはどうでもよいのだ」

「月刊Asahi」六月号がいざ発売になったあと、あらためて本省に呼び出しを受けた折のやりとりだ。(Aは審議官、Jは直属の上司)
 いったいどういうつもりなんだ。
 休暇に対する問題点を、僕の事例を用いて浮き彫りにしたのです。
 そんなことを聞いているのではない。君の将来設計について聞いているんだ。
 いろいろと考えています。暗中模索の状態です。
 君には、組織の中で生き残ろうという気持ちがまったく見られない。普通は生き残ろうと努力するものだ。
 朝日にあんな投稿をして、恥ずかしいと思え。
 あなたは恥ずかしいと思うから書かない。私は恥ずかしいと思わないから投稿したのです。あなたの考え方を私に押しつけないでください。
 今後、あのような行動は慎んでほしい。
 投稿するかしないかは、私自身が決める問題で、あなたにあれこれ言われる筋あいのものではありません。
 きみは、我々とは別世界にいるんだよ。
 残念ながら、そのようですね。
 君のような考え方で行動をとられては、えらい迷惑だ。
 異なった考え方を、とり入れてゆくだけの包容力を持つことが、民主主義の基本ですよ。
 君と我々は価値観がまったく違う、まあ、外国帰りだから、多少の違いはあると思っていたが、こうまで違うとは。世界が離れすぎている。
 我々と同じ考え方でない者は去ってもらうしかない。
 ところで、これまで幹部のだれからも、原稿の内容についてのコメントがないのですが。
 君の文など読んでいない。書いてある内容などどうでもよいのだ。組織に属している者が、ああいうものを雑誌に投稿する、そのこと自体を問題にしているのだ。同じ価値観を共有する者は、書こうとは思わない。きみの考え方は、我々の組織にはなじまないのだよ。だからさっさとやめてほしいのだ。
 すくなくとも僕のまわりでは、おもしろいと言ってくれる人がほとんどですよ。
 あんなもの、どこがおもしろいのだ。
 いや、君の書いた内容を、おもしろいと言う人もいるんだよ。でも不愉快だと感じる人もいるのだ。それが問題なんだよ。やはり、人に不快感を与えるような文章を書いてはいけない。とくに官僚の世界では問題が生じる。君と我々は宗教が違うのだ。
 それはそのとおりかもしれません。僕は役人として喜んで仕事はします。でも教義を、みんなといっしょに唱えるのは嫌なのです。休暇を取るな、引っ越しを手伝え、病欠は年次休暇で消化しろ、昼休みは短くしろ、遅くまで残っていろ、などは、みな教義ですから。もうすこし、その個人が有する能力に注目していただきたいのです。
 能力だなどと、たいして能力もないくせに、大きな口を叩くな。外に出て好きなことを言えばいいんだ。
 どうやら、早くやめたらどうかと言っているようですが、やめるやめないという僕の人生の節目は自分で決めます、あなたに指示されてどうこうする問題ではありません。
 なにしろ賄賂でももらわない限り、俺たちはお前を首にできないのだ。だから早い時期に辞表を提出してほしい。まあ、聞くところによると君も自分の人生設計があるようだが、いずれにしても、この部屋で君の顔をまた見なければならないような機会は作ってほしくない。

外国人はいつまでたつてもガイジンの国

幹部たちは、厚生省はひとつの「ムラ」であり、「ムラ・内」と、それ以外の「外」を使い分けることが官僚社会ではもっとも重要なことであると私に説いた。「内」と「外」の概念は、日本に独自のものである。それは日本人が外国人をまさに「外人」と呼ぶことに象徴的にあらわれている。「内」と「外」にははっきりとした境界線が引かれ、日常生活の中で、「内」の教義に素直に従わない限り、「外」に属している者は、いつまでたっても「外」の世界の住民でいることを強いられる。どんなに日本文化を理解して、生活様式まで共有しても、外国人はいつまでたつてもガイジンである。これだけ排他性の強い社会は、他の先進国にはちょっと見られない。近年、海外から日本市場は閉鎖的だとの批判があるが、この閉鎖性も元をたどれば「内・ムラ」の排他性に帰着すると思ってよいのだ。

ある報道機関に勤める友人はこう言った。「お前の言っていることは正しい。でも俺たちの会社にお前みたいなのがいたら、やっぱり困るんだな。だから、厚生省の幹部と同様に、どうやったらお前を追い出せるかを考えるだろう。他人ごとだからこそ、朝日新聞社でも載せるのだ。自分たちの内部に同じことをする人間がいたら、絶対に紙面を提供などしない」

日本社会で、「内」に属している者が、「内」を批判することはタブーなのである。そのタブーを犯してしまった、それが今回「月刊Asahi」に投稿してよくわかったのだった。

組織体としての役所は最初は、「ムラ八分」を脅しとしてこれまで言論の制限やみんなと同じ行動をとることを私に強いてきた。だが、私がタブーを犯してしまうと、ほんとうに「ムラ八分」を実施してきたのだ。この体験でもうひとつわかったこと。それは「ムラ」の調和・平和は「個」の生活の犠牲という代償の上に成り立っているということだ。しかし、このような平和は本当の平和主義に立脚したものだと言えるのだろうか。そこには「外」の世界はどうなってもよいとの発想が見え隠れしている。景気後退ともなると、外国人労働者や日系人はすぐ解雇されるのに、日本人はよほどのことがない限り首は切られない。行楽地で見る散乱したゴミ、走る自動車から、くずをポイ……。「旅の恥はかき捨て」も、この発想があるからこそおきる現象だろう。この発想を持って外国と対応するとどうなるだろうか。「内」なる日本さえ和が保たれればよいのだから、「外」の外国は、日本との競争によって毎日の生活にどのような影響が出ようが、知ったことではないという発想になりかねない。個人の生活を犠牲にして成り立った日本経済はエコノミックアニマルの力をごり押しし、外国人の個人の生活をも犠牲にして膨張しようとする。これでは外国から非難されるのも当たり前だろう。

「月刊Asahi」への投稿では、幹部から叱られてさんざんな目にあったが、実は正反対の反響も多々あった。そっと私のところにきて、「いや、よくあそこまで書いてくれた。みんな同じことを思っているけれども、組織に属していると言えないことが多いんだよな」と喜んでくれた人も、省内に多数いたのである。厚生省となじみの深い、ある国立大学の病院の院長は、わざわざ書面で激励してくれた。また、外部の知り合いからも、「楽しく読んだよ、続編はあるのかい」とか、「官僚社会はほんとうに古めかしくて、たいへんなんですね。すこし風通しをよくしてあげてください」などたいへん好意的なコメントを多数いただけた。そのことは、私にとってたいへん心強いことであった。また、「あそこまで書いて大丈夫なのですか」と、私の将来を案じてくれる大勢の読者の声に、感謝の意を表したい。出る杭は打たれる、という。だが、ここでひるんでは意味がない。出すぎた杭は打ちようがない。勇気をふりしぼって、出すぎた杭になろうと思う。

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杉本良夫『日本人をやめる方法』より

第三章 「ものいえば唇寒し」からの自由

日本に言論の自由があるだろうか。この問題を考えていて、はたと思い当る場面に、最近二度ばかり出くわした。

第一話。テレビ局から電話がかかってきて、日本的経営の普遍性と特殊性について討論会を放送したいから参加してもらえないか、という詣である。「喜んで」と答えて電話を切ったが、数日後にまた電話がかかってきた。「日本人ビジネスマンで適当な人が見つからない」というのである。オーストラリアには何千人という日本人の駐在員がいるはずだから、それはおかしい。訳を聞いてみると、「討論となると、相当高度な英語を話せる人が必要なのだが、それに該当する人がいなくて困った」という話。若い人ならかなり英語のできる人もいるのではないかと思い、数人の名前をあげてみた。電話の向こうのプロデューサーは大喜びである。

ところが、数日してまた彼から電話。どういうことなのだろうと思って、根掘り葉掘り聞いてみると、話はこういうことらしい。たしかに、若手で討論に耐える英語の実力のあるビジネスマンはかなりいる。ところが、こういう人たちは上司の許可なしに公の場所では勝手に発言することができない。だから、何が出てくるか分からないような討論会には、自由に参加できないというのである。一方、上司に当たる駐在所長や支店長で、英語で複雑な論陣を張れるだけの人が見つからない—とプロデューサーは頭をかかえている。

「まさか」と思い、数人の知人に連絡してみると、話はもっと手がこんでいる。ある友人など、「うちの会社など、個人がメディアに発言する場合には、必ずその内容を事前に東京に報告し、まず本社から許可をもらわなければならないんです。私人としてでも、自由に見解を述べることは禁じられている」との話。さもありなんと思う一方、やや唖然とした。

日本社会に言論の自由はあるか

第二話。数日前、メルボルンの市心にあるラングージ・センターの先生と昼食を共にした。英語会話学校のようなところで、外国から来た学生たちに英語が一人前になるまで力をつけることを仕事にしている人である。話がはずんで、彼の教室の様子があれこれ話題になった。全部で二十数カ国から来た学生たちを手がけてきたが、日本での留学ブームのせいか、数からいうと日本人学生を一番たくさん教えてきたという。

私は好奇心をそそられて、彼の目から見た日本学生観を聞きたいと思った。彼は少しうつむいて考えていたが、目を上げると、こう話しはじめた。「自発的に自己表現しないのが、他国からの学生と比べると際立った特徴ですね。みなさん質問がありますかと聞くと、必ずいろんな国の学生は積極的に質問してくるのだが、日本の学生はおしなべて黙っている。ところが、彼らも実は心の中には質問を抱いているんです。それが証拠に、例えば山田なり鈴木なりの各個人を指名して、質問があるかと聞くと、いろんな質問をするんですよ。しかし、全体に対して質問があるかと問いかけたときには、彼らは発言しない。このパターンが日本人学生については一般的だと思います」

ウーンと私は考えこんでしまう。そのことと、日本人は概して英語がうまくないということと関係があるのだろうか。彼はその点についてこういう。「日本の学生は人前で失敗をすることに恐れを持っている人が多いのじゃないですか。イタリアとかギリシャとかユーゴスラビアとか、ずいぶんいろんな国の学生を教えたけれど、日本人学生は文法は間違っていないか、発音で失敗しないか、細部にとらわれて全体としてのコミュニケーションをうまくやれないというところがある。ことに、人前で笑われることに神経質ですね。陽気な国から来た学生たちは、何度笑われても全然平気で、かえってそういう経験を通して、自然にうまくなっていくというところがありますよ」

なるほど、このあたりが日本社会に言論の自由があるかないかを探っていくための深層迷路のような気がする。私たちは、なぜ自分の疑問や思いを、笑われることを怖がらずに、まっすぐに差し出すことをためらいがちなのだろうか。

マイノリティー・オブ・ワン

このふたつの挿話は、私たちが自発的に発言しようとするときに、それを制止する力が少なくとも二種類あることを暗示している。

ひとつは、第一話のような外からの圧力である。自由に発言しようとする人たちの目を封じようとする制度や慣習が、日本社会の中には張りめぐらされている。もうひとつは、第二話のような内からの規制である。自由に発言する機会が与えられても、尻ごみするクセが、多くの日本人の行動様式の中に、クサビとなって打ちこまれている。これは、私たちが家庭や学校で子どものときに身につける反射神経のようなものだ。大きくなって職場にはいったときには、もう変更不可能なほど体内にしみこんでいることが多い。「もの言えば唇寒し」という思いが、多くの日本人の意識と無意識の境界線のあたりをつかまえている。これは、生活の場における「言論の自由」と対極にあるものだといえよう。

私はアメリカとオーストラリアの大学の教壇に立って二十三年になるが、幼年期から大学にはいるまでの過程で、これらの国の学生が身につけてきたものは、私が日本の学校で体得したものとは明らかに違う。普通の暮らしの中での「言論の自由」は日本では希薄なのではないだろうか。こうした自由の要件は、少なくともふたつある。

第一に、上意下達への抵抗力が強いことである。学生は教員の考えに反論することを、自分の実カテストの場と考えている。だから、講義でもセミナーでも「先生の論点はおかしいのではないか」とか「先生の見方は矛盾している」といって食いさがってくることが、日常茶飯事である。教員の方もレポートや論文を採点するときに、教員の考え方をそのまままとめたり、読んだ本を賞めあげただけのものには、いい点数を与えない。学生がどういう批判を展開するか、新しい命題を代替案として提出するかといった点にとくに期待をかけているからだと思う。

第二に、数の上で少数の立場の人にも、十分に討論のチャンスを与えることである。会議などに出ていて強く感じるのだが、少数意見に必ず十分な発言の機会を与えることが、議長の義務になっている。「マイノリティー・オブ・ワン」という表現があって、少数派が孤立したひとりである場合にも、その人を無視しない。それが民主主義の鉄則なのである。こういう観点から見るとき、日本の草の根に民主主義は十分根づいているといえるかどうか。

「日本の恥」という恥

海外で暮らしていると、こうした外部圧力と内部規制が、いろいろな形で同時発生する。あることをすると「日本人の恥」になるという考え方も、そのひとつである。最近こんなことがあった。私たちの大学のラングージ・センターでのちょっとしたもめごとである。ここに留学生として五十歳を超えた中年の男性A氏が現われた。こんな年齢になって初めて英会話を習おうというのだから、一種の美談である。ところが、オーストラリアの教室は、日本のそれとは雰囲気が全く違う。先生に疑問があれば、生徒はどんどん反論する。授業の前後に「起立」「礼」「着席」といった号令もない。廊下で先生に出会ってもおじぎなどはしないで、「ハーイ」と手を上げる程度である。

日本から来た若い学生たちは、こういう形式ばらないスタイルにすぐに同化することが多い。しかし、A氏はこれが気にいらない。「先生にはもっと尊敬を示すべきだ。上下関係をちゃんとしなければいけない。こういう態度は、日本人の恥だ」と若い学生たちに説教を繰り返し、ときにはどなりつけるという騒ぎもあった。ここには、二重の問題があらわれている。

ひとつには、年上の者が年下の者に対して、自分の価値基準を強制できるはずだという信念。もうひとつは、日本人同士は共通の価値観を持つべきで、そこから逸脱する者は「日本の恥」だという思いこみである。

前者の上意下達型の言論封鎖は、日本の外へ出てしまうと効き目が弱い。しかし、後者の「日本の恥」という概念は十分に検討されないまま受けいれられがちである。現に、私たちは外国人と話すとき、何となく日本を現実よりも少しでもよく見てもらいたいという気分に支配されがちではないだろうか。この気分が曲者である。日本社会の優れた側面だけでなく、その恥部についても、ありのままを明確に話せるようになってはじめて、私たちは言論の自己規制から自由になれる。

早い話、オーストラリアから日本へ留学に出かけた学生たちが一様にこぼすのは、日本人の多くは日本国内のマイノリティー問題に触れたがらないという点である。日本での被差別部落、韓国・朝鮮人社会、アイヌ人コミュニティーなどの問題は、小さな争点ではない。ところが、日本人の中にはこういうことについて話すことをいやがる人が多いだけでなく、日本は単一社会だと主張して、問題の存在さえ隠してしまおうとする人もある。これらはすべて、「日本の恥」という意識にとらわれて、ありのままの日本の姿を直視することから尻ごみする姿勢だといえよう。こういう言論の自由の自己封鎖という傾向の方が、実は「日本の恥」なのではないだろうか。

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