サービス残業(不払い残業)を好む社畜

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宮本政於『お役所の掟』より

サービス残業

残業は中央官庁に限らず、日本の企業では当然のことと受け入れられているが、役所で超過勤務手当がどのようにして給与に組みこまれるかを紹介しよう。予算の関係から、残業手当には限りがある。そのため、時期に応じて各課に表向きの残業時間の割りふりが書記室よりくる。それを受けて各課の総務係長は役職に応じて時間を換算し、受け取る金額が平等に配分されるようにする。

要するに、残業は本来の勤務の一部であるとの認識があるからこそ、このような対応ができるのだ。しかも手当が支払われる残業は本来行った残業の四分の一から五分の一。残りはサ—ビス残業という名の労働奉仕だ。中央官庁の役人の労働は、合法的な勤務時間+残業+サ—ビス残業により成り立っている。政府がサ—ビス残業廃止の行政指導など、できた義理ではない。

さらに、国会も大きな障害である。現状では中央官庁と国会は一心同体であるといってもよい。国会が開催されていると、役人は嫌でも仕事が入ってくる。週休二日制が施行されると正式に発表された直後、国会ではどうなるのか国会の事務局に電話をして様子を聞いてみた。電話に対応した男性は「原則として土日は休会になるが、会期制をとっている国会は官庁の閉庁には縛られないとの合意ができている」と説明してくれた。この「官庁の閉庁には縛られないとの合意」が、くせものである。なぜならば、日本では実質的には三権分立ではなく、立法権は行政権を握っている官僚の手中にあり、国会でのほとんどの答弁及び法案は官僚が作成しているからである。そのため、国会が開かれると中央官庁の役人は、出勤を強いられる。というよりは、国会が開かれているとき、官僚たちが国会議員のサボ—トをしないと国会は機能しない。極論すれば、国権の最高機関といわれている国会とは名ばかりで、霞が関の出先機関と言ってもさし支えがないほどなのだ。だから、国会議員が官僚への依存なく、立法行為ができるようになったとき、初めて役人も完全週休二日制を満喫でき、サ—ビス残業もしなくてすむようになるのだ。

働きすぎと外国から批判され、それを是正しようとしての労働時間の短縮に政府が乗り出し、完全週休二日制がやっと平成四年の五月から導入された。それに加えて、政府挙げての時短の率先。それでは勤務時間が本当に短縮されるかというと、実態はそんなことは考えられない。サ—ビス残業をどのようにしたらなくせるか、その部分にまで踏みこんではじめて、労働時間は減少にたどりつく。

現状では、統計上の労働時間は減少するかもしれないが、結果的にはサ—ビス残業が増えるだけであり、日本人の実質的な労働時間には変化がない。時代錯誤の「滅私奉公」の思想をありがたがるから、サ—ビス残業などの悪しき習慣はいつまでたってもなくならない。役所は統計の数字あわせが得意である。しかし本質が伴わない統計など、働きすぎと日本を批判している外国を一時的に満足させるだけで、小手先だけの統計など、すぐにメッキがはがれてしまうだろう。日本は「個人.消費者」の生活を中心とした発想に転換を図ってこそ、初めて労働時間の短縮に弾みがつく。

西欧諸国は、自分の時間と仕事の時間にはっきりとした区別をつけ、自分の時間を大切にする。日本人は夜も徹して仕事に励み、商品を売り込んでくる。西欧諸国では一日八時間の仕事量、他方日本では一五時間の仕事量、これでは、勝負は目に見えている。

「苦役」か「善」か

近ごろの論調に、「欧米諸国では労働は神から課せられた苦役であり、神の教えに忠実に従うことにより、いつかはその苦役から解かれる、との発想が原点にあるため、労働を『善』なる行為とは見ていない。それに対する日本では、二宮金次郎に代表されるように労働は『善』なる行為との考え方がある。だから、単純に欧米的な労働論理を日本に持ってきても土壌が違うから、そう簡単になじまない」というのが目につく。

しかし、この論調、人間の心理という学問の観点からとらえると、本質的な部分に欠落があることを指摘しておきたい。人間の精神構造の基本には「快楽追求の原則」が存在する。「快楽原則」は万国共通であり人間の本能でもある。人間は「楽」を好み「仕事」という労働を嫌うのは当たり前なのである。

仕事というのは自分の生活を維持するための道具と考える西欧社会では、仕事のために自分の生活が侵食されてくることは許せないことである。遠いアジアから来た日本人が質の高い商品を売り込んでくる。その日本人は、欧米社会で決められた労働時間を無視して、商品の生産に力を注いでくる。このような日本人と対抗するには労働時間の延長しかない。結果は、日本人のおかげで労働時間が多くなるため、自分たちの基本的な価値観を変え、日本人同様、個人の生活を犠牲にして日本と競争するようになるか、日本との競争に敗れて市場は日本製品で氾濫するか、のどちらかである。いくら日本との競争に勝ったとしても、自分たちが信じている基本的な価値観を変えるのであれば、また日本製品で市場が征服されるのも、どちらも彼らにとって、日本との闘いに負けたということになる。だから、多くの欧米人が日本はフェアではないと怒るのも無理はないのだ。フランスのE.・クレッソン女史の「日本は世界征服を企んでいる」などの過激な発言も、荒唐無稽な感情論だけではないことに気がつく。

日本の国際化に多くの意味があろうが、自ら先進西欧社会の一員となったという以上は、その価直基準を共有することは避けられないはずだ。となれば、彼らがいちばん重視している「個人の時間」を、日本人が入り込んだことにより変えなければならないような状態に導いてはならない。ゆとりのない生活環境でいくら素晴らしい製品を作っても、その製品の本来の持ち味が生かすことができないような環境では意味がない。日本人の居住環境とは、世界一の製品が山と積まれた倉庫のようなところで、「ああ、日本人はこんなに優秀なんだ」との自己満足の幻想に浸っているといえるのではないか。ゆとりを十分に持ち、自分と家族の生活を楽しむ。これは西欧社会だけでなく、どこの社会においても目指すべきル—ルである。「仕事は個人の生活を豊かにするための道具」と考える生き方のほうが、「個人の生活を犠牲にしても組織のために頑張ろう」という意識より、よほど人間的に思える。それこそが政府の掲げる「生活大国」の道ではないのだろうか。

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筑紫哲也×C・W・ニコル×宮本政於
『他人の問題 自分の問題』より

働く時間と生産性を管理することが、管理者としていちばん重要な仕事ではないでしょうか。たとえば時給一〇〇〇円だとします。そして午後六時以降八時までは一二〇〇円、一〇時までは一四〇〇円が支払われるとします。このように時間と賃金の関係がはっきりしていれば、管理職は支払う賃金と生産性との関連から、何時まで残業をしてもらうかの判断をする必要が生じます。当然、支出が多くなれば経営に支障をきたしますから、通常の勤務時間帯を最大限に生かし、生産性を上げようと考えるようになるわけです。

ところが日本の管理職は、職員はサービス残業をするのが当たり前だと考えている。おかげで本来、管理職として求められなければならないことを、求められなくてすんでいるわけです。だから日本的集団社会の管理者は、個人を枠内にとどめておくことが最大の業務となり、人間の持つ生産性とか創造力など、本来、管理者に求められていることは大切なことではなくなっている、と極論することもできるぐらいです。だからこそ、管理者として無能な人でも管理職に就けるのです。

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