ムラへの同化を強要する社畜

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宮本政於『お役所の掟』より

まずは缶ビール

毎年秋になると役所で年一回の「課内旅行」の季節となる。私も厚生省に課長補佐として入って二週目に、課内旅行担当の係長から声をかけられた。「一一月に課内旅行で〇〇温泉に行きますが、交通手段はどうしますか。ほとんどの人は電車です」なにもわからない私は、「予定日は平日ですか」と聞いたが、「いえ、土日を利用して行きます」との返事。係長は、「課員の親睦を深めるという意味あいで、年に一回やっていますので、課員全員から意見を求め、春先に行く場所を決めてあります」と補足してくれた。「ということは、自由参加なんですね」と念を押すと、「原則はそうですが、病気でもない限り、全員参加が慣習となっています」とのこと。「しかし、どうして親睦を深める行事を土日にするんですか」と聞くと、「平日は忙しくてとても旅行に行くような時間はありませんから土日になるのです。多くの人が楽しみにしているんですよ」と教えてくれる。係長が私に聞いてきたのは「行くか、行かないか」ではなくて、あくまでどんな交通手段で行くかという選択であった。行って当たり前という口ぶりだ。

「飲め飲め」

さて、宴会がはじまってみると、またビックリの連続である。みんな、食べることはそっちのけで、お互いに酒を注ぎあうのに熱心なのだ。宴会とは食事を楽しむのではなく、酒を飲むほうが大事なのだとわかったが、どうりで食事がまずくともいいわけだ。私はあまり酒に強くないと言ったのだが、私の意向などどこ吹く風で「飲め飲め」と強要される。まわりを見ていると、注いでもらって「どうもすみません」とか「ありがとうございます」とお礼を言っている。飲みたくもない酒を強要され、お礼まで述べるなどお断りだと思いつつ、これも日本の習慣かと、ついため息。私の当惑した表情を気にしてか、ある同僚が、「地方ではこんなものではないのですよ。さかずきに穴があいていて、指でおさえないとお酒が漏れてしまう、しかも熱だから早く飲まないと指をやけどする......。そんな習慣もあるくらいだ。いずれにしても、お酒が強くなるようにトレー二ングしたほうがいい」と、一杯注ぎながらアドバイスしてくれる。お酒の注ぎ方にこれほどまで違いがあるとは。欧米諸国ではソムリエがワインを注ぐが、お客が飲みたくなければ、軽くワイングラスに指を置く、そのような簡単なサインが「いまはけつこうです」とのメッセ—ジとなる。だから自分の酔い加減を調整しながらお酒が飲める。「飲め飲め」などと強要はけっしてしてこない。ソムリエがいないレストランではお客同士が注ぎあうが、やはり同様のマナーが存在する。相手を徹底的に酔わせてやろう、などの発想は存在しない。お互いに相手の酔い加減を見ながら、相手の立場を常に尊重する。そんなお酒の飲み方に慣れていた私は、役所の旅行でのお酒の飲み方にはほんとうにビックリしてしまった。この課内旅行に参加して、宴会の最大の目的は「酔うこと」にあると気がついた。

しかも、よく観察していると、アルコ—ルが弱いとわかっている人間に無理やり飲ませようとしている。「役人は、アルコ—ルに強くならなければいけない、これは君のためのトレー二ング」などと、忠告めいたことを言っているのだが、ほんとうはアルコールで苦しんでいるのを見て喜んでいる。まわりも、それを見て止めようともせず、楽しんでいる。年功序列、終身雇用の世界、上司が注いでくれる場合など、それを拒否することは難しい。

仕事の延長

私が役所の宴会について文句を言っているのを聞きつけたある先輩が、あるときアドバイスしてくれた。「少々の酒ぐらい、飲めるようにしないと駄目だぞ」「飲めないことはないのですよ。でも自分のぺ—スで、私の好みの酒を飲みたいのです。そうでない
なら、飲まないほうがいい」「なにをわがままなことを言っているんだ。宴会も仕事の延長なんだ。さかずきを受けないことは、相手を拒絶することになる。人の心を傷つけるような行為は慎まなければならない」「だったら、相手の人も私の気持ちをくんでほしいのですが」「いいか、君も将来、県の衛生部長として出向する身だ。衛生部長といえば県の大臣なのだから、みんなが君の行動を見ている。私もなん回も衛生部長を経験したが、宴会が毎日のように続く。でも接待してくれる側の気持ちを十分にくんで、出されたものは全部食べ、さかずきを受けることが大切なんだ。そうすると本音が出てくる。このような人間関係を培うことができてこそ、本音を上手に聞き出せるし、調整もできる。これができて初めて君のやりたい政策が日の目を見る。長期間ではないのだから、少々肝臓に無理があったり、体重が四、五キロ増えたつてしかたがない」「仕事のため、相手の気持ちのため、自分の健康管理をおろそかにするなんて、ついていけません。国の政策も大事ですが、自分の健康が第一ですよ」「君はアメリカから帰ってきたばかりだからそんなことを言うが、我々の習慣に慣れてもらわないと困る。いまのような考え方だと、日本社会では生きていけないし、役所にとっても迷惑だ」

狂態と無礼講宴会は時間がたつにつれて、騒々しくなってくる。酒がたくさん飲めることは男の証明とばかり、ガブ飲みしている者もいる。大きな声で怒鳴る者、上半身裸で酒を飲む者、前後不覚になるまで飲み続ける者、裸で踊りだす者もいる。人間の品位とはいったい何なのか、考えざるをえない。アルコール度が高まると会話の中にユ—モアやエスプリ、ウィットがあふれ出てくるのが欧米風の宴会である。なにごとも日本と欧米の単純な比較はできないとは思うものの、こと役所での宴会を見るかぎり、軍配は欧米にあがってしまう。日本文化は世界の中でも卓越した洗練度を誇っていると思つている私としては、残念のひとことだ。腹の出た中年の男たちが浴衣の裾を乱しながら、狂態をくり広げるシーンは想像を絶するほど醜いものだ。だが、これらのはめをはずした行為は女性がいないからこそできるように思える。

よくよく見ると宴会でくり広げられているシーンにはふたつの特徴がある。ひとつは、行動、言動がとても子供つぼくなること。もうひとつはなんとなくベタベタとして、一見ホモセクシャルかと見まちがうような光景が広がってくることだ。そしてそうなってくると、やっと本音がでてくる。お互いの不満、上司の悪口などが、かなり辛辣な口調で飛び出してくるのだ。そしてお酒をたくさん飲んだふりをしている課長は、それを苦笑いしながら聞き流している。私はいつも酒を飲まずに言いたいことを言ってしまうから、なにかと物議をかもし、「ムラ」社会からはずれてしまうのだが、ここでは「酒の上での無礼講」で、なにを言っても許される。一見「和」が保たれていると見える「ムラ」組織。でも、実態はストレスがいっぱい。不平・不満が存在する。その調和の陰に隠れたストレスを発散させているのが宴会の場なのだ。こうしてストレスを発散させつつ、「ムラ」の平穏が保たれるのだ。

ふだんおとなしく真面目そうな人ほど、宴席ではめをはずすことに気がついた。そこで、忘れかけていた精神分析の知識を用いて、彼らの心を分析してみると、おとなしく、律儀で真面目、こんなイメ—ジを与える人ほど、心の内部にうつ積されたストレスの度合いが大きいことがわかってくる。とくに役所のように建て前重視の世界では、なおさらストレスも大きくなる。

宴会での無礼講に、それなりのストレス発散効果があることは理解できる。こっちが巻き込まれないのなら、とやかく言うつもりはない。ただ、いっしょはお断りなのだ。ところが無礼講の大きな問題は、狂態を演じたくない、と思っていても無理矢理に相手を引き込もうというところにある。運命共同体、一心同体、そんな感覚で迫ってくる。しかも、不思議なことに私のように「ムラ」に入ったばかりの住民に対しては平気で辛辣な嫌みを言ってくる。気分を害そうが傷つこうが一向におかまいなしなのである。「国民の範たれ」との訓辞など、どこ吹く風の傍若無人な部分が出現する。

「ムラ」への同化

ちょっと例を紹介しょう。過去に流行した曲を知らなかったりすると、「浦島太郎だ、宮本さんは。亀に乗ってもう一度竜宮城に戻ったほうがいいよ」とか、たまたま地方の特産物で私が知らないものがあったとすると、「宮本さんは外国人だ。こんな食べものも知らないとは。きっと横めしのほうが好きなんでしよう。オレたちとは違うもんな」とことごとく私を「ムラ」の中に入れないようなコメ
ントが続く。それでなくとも十余年のブランクをどうやって埋めようかと考えているのに、このような対応をとられると、疲れがドッとでてしまうのだった。このように、冷たくあしらうことが「ムラ」への同化を促しているのだと気がついたのは、役所に入つてからかなり経ってからである。

翌日は日曜日。朝早くから、またまた団体行動のはじまりだ。ゆうべの大騒ぎで睡眠不足なのだから、ゆっくり寝かしてほしいのだが、「宮本補佐、早く起きてください。朝食の時間です」と朝七時半には起床ラッパが鳴り響く。幹事からの指令は、「全員八時半までに朝食を終えるように」はめをはずした一夜が明けると、一転して軍隊なみの厳しさなのだ。

欧米、東南アジアへ旅行をすると、朝食は一一時までというところが圧倒的だ。場所によっては一二時というところもある。せわしい毎日から自分を解放する。旅行をすることにより異なった文化に触れ、見聞を深める。それが本来の旅行の目的であり、人生にゆとりをもたらすのだ、と私は解釈していた。しかし、役所の旅行は、私がそれまで慣れ親しんでいたものとはまったく異質なものであることがわかったのだ。

課内旅行とは、規律ある集団行動を行うためのトレ—ニングの場であり、日ごろ発散できなかったストレスを解消するストレスマネージメン卜の場なのだ。要するに、仕事の延長なのである。私はこれにこりて、以後、旅行の幹事が出欠を聞いてくるたびに、こう返事をすることにしている。「課内旅行は仕事の延長なのだから、代休がもらえるのならば出席します。そうでないなら、自分の時間である土曜、日曜を組織のためにささげるのはお断りだ」幹事はいちょうに目を白黒させる。

無言の圧力

防衛庁に出向していたときも、「課内旅行に行くのはいいのですが、私は業務の一環としてとらえています。土日を使用して行くのですから、一日半の代休がほしいのです。手続き方法を教えてください」と言ったところ、上司はびっくりした顔をして、「なにを言っているんだ。課内旅行は課の全員が楽しみにしているのです。ひとりひとりが集まって行う行事なんです。仕事の延長ではありません。代休など前例がない。とても無理です」との返事。そこで、「でも、全員が楽しんでいるとは言いきれないと思いますよ。すくなくとも私はちっとも楽しくないのです」と反論すると、「だったら、あんたは出席しなければいい」との冷たい返事。私も負けずに相手の矛盾点をとらえ、「ほら、出席という言葉を使うでしょう。出欠を取るという気持ちがどこかにあるということは、課内旅行はやはり仕事の一環と思っているからですよ」と言うと、「なにを、つまらないことを言っているんだ」と怒ってくる。

いったん怒らせてしまったのだから、そのついでと、「私はたんに事実だけを言っているのですよ。それに、旅行に行かないと上司の評判が悪くなる、と聞いています」と言うと、上司はますます機嫌が悪くなり、「評判など悪くなるわけがない。あんたの考えすぎだ」と、反論してくる。「考えすぎではありません。これまでの厚生省の例を見ても、半強制的に課内旅行に参加させられています。だから課内旅行は業務の一環と見るべきで、レクリエ—ションではありません」私の論理展開に、上司は不快感もあらわに、「国家公務員法を読んでみなさい。課内旅行が仕事だなどとは書いてありませんよ」と吐き捨てるように言う。「法律の話などしていません。建て前は補佐の言うとおりですが、本音は違うでしょう。私は建て前の話などはしていません。課内旅行に出るようにとの無言の圧力がある。それが問題だと言っていること。次に、無言の圧力のもとに、組織にいる人間の行動を支配するのであれば、その時間帯に行った行為は当然業務の一環と考えるべきだと言っているのです」と持論を展開すると、「それはあんたの自分勝手な論理だ。宮本さんが行きたくないのならば、行かなければよい。それだけのことだ」と苦虫をみつぶしたような返事である。

どうも半分けんかになっているようだ。ちょっとまずいな、と思ったものの、この際だ、「そんな簡単な話ではないと思います。私は出向者ですから、先任補佐と意見の対立があってもどうってことはありません。でも、上司との対立を避ける役人のほうが圧倒的に多いはずです。そういう人たちは、嫌だと思っても結局は行かざるをえなくなるのです。そういう人たちのことも考えて、あえて問題点を明確にしているのです」と言ってしまうと、「他人のことなどおせっかいをやかなくてもいいんだよ」といいかげんにしろ、との顔つきである。私も負けず嫌いのところがあるものだから、「そうでしようか、個人の権利が侵されている。黙っていれば、最後には私の権利まで侵されるのです。だから黙っていられないのです」と言う。上司は議論が論理だった内容になればなるほど、いらだちを増し、「権利だの義務だのそんな仰々しい話ではないでしょう。あんたはほんとうに理屈っぽい。厚生省に帰ってその調子だったら、とても役人としてやっていけないよ」と嫌みを言ってくる。

もうここまできたら、と考え、「ご忠告ありがとうございます。でも私にとって自分の時間はとても大切なのです。そう軽々と組織へ献上できません。いずれにしても、これはお互いの人生観の違いから生じる問題だと思います。お互いに、接点を見いだすことができずに残念です。どうもこれ以上話をしても無駄ですね。いずれにしても、私は課内旅行は業務の一環であるという見方を変えるつもりはありません。ですから代休をもらえないのならば参加は辞退せざるをえません」とはっきり態度を表明することにした。すると彼は、「好きなようにすればいい」とブイと横を向いてしまう。

当時机を並べていた同僚は、私が先任補佐と言い争っているのを聞いていて、共感したのか、次のように課内旅行の歴史を教えてくれた。「課内旅行というのは戦後、日本が復興するのに励んでいた人々が、一年に一度ぐらいは休養を取ってもよいのではないかと、毎月積立をはじめ、役所が補助金を出してはじまったのですよ。当時は楽しみといったら課内旅行ぐらいだった。時代は大きく変わっても、その伝統だけが残っているんですよ。だから、ほんとうは行きたくない人もけっこういるのです」なるほど、課内旅行とはゆとりがなかった時代の名残なのだ。平成の時代になっても、それを後生大事に守り抜こうとは、生活大国を掲げてゆとりを求める政府の姿勢にも逆行するではないか。

「ひとりだけでは悪いから」

さて、課内旅行二日目に戻ろう。朝食を九時までに終わらせると、その日の行事予定の説明がある。ゴルフ組、遊覧船組、名所旧跡巡り組、ワイン工場巡り組の、どれに参加しますかと問われる。不思議なことに、どれにも参加したくない組というのは存在しない。個人の自由はここでもまた無視されるのだ。もはや一刻も早くこの場から去りたい私は、ひょっとして私同様の人もいるのではないかと考え、この仮説を立証してみることにした。「私は、一〇時発の電車で帰ります」と宣言したのだ。驚いた顔で私を見る同僚たちを尻目に、そのまま帰り支度をしていると、ひとりが、「それではわたしもおつきあいしょうか。補佐ひとりだけ帰すのも悪いから」と言い出した。すると同調者が出てくる。結局五人ほどが一緒に帰ることになつた。「ひとりだけ帰すのも悪い」とはよく言ったものだ。悲しいかな終身雇用、年功序列の集団管理体制のもとでは、自分から意見を言わないように訓練されている。だから私をダシにしたのだ。しかし彼らの反応から、私の仮説が正しかったことがわかった。

課内旅行には、官僚組織と集団主義の問題点が集約されている。伝統という名のもとに、時代後れとなったシステムが大きな顔をして幅をきかせる一方、集団に属する個人がお互いを監視しあう。そのため、個人の意見があったとしても、まわりの目を気にして発言できない。「組織の伝統」という大義名分のもとに、個人の意思は抹殺される。多くの人が時代錯誤の習慣だと認識していても、それを変革できない、という悪循環が成り立っている。これはなにも旅行に限ったことではなかろう。そんなことがわかったこと、それが課内旅行で得た唯一の収穫であった。

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